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ホッブズ/リヴァイアサンは恐い本ではなかった

トマス・ホッブズのリヴァイアサンを初めて読んだ。
リヴァイアサン1 (光文社古典新訳文庫)
私の知識は高校の教科書のもので止まっていた。
その記憶もおぼろげではあったが、「王権神授説の理論的支え、自然状態だと万人の万人に対する闘争状態になるため権力たる国家=リヴァイアサンが必要で民はそこに自分を守ってくれる代わりに従属することを選んだ」というような内容と、何をおいてもあの絵!教科書に必ず出てくるリヴァイアサンの恐そうな絵。あの印象が強すぎて、当時の印象は「リヴァイアサンが必要といってだから絶対王政が必要なんて、なんか過激な人だな」と思っていた。

最近、古典は実際読むべきものだなと、読めば読むほど思っていたので(市民政府論、自由論、社会契約論等々...)なんとなくその流れで、まぁ読んでみるか程度でリヴァイアサンも読んでみた。
結果、やっぱり実際に自分で読んでみるべきものだった...という感想。

ホッブズは特に絶対王政の支持を表明しているわけではなかったし、万人の万人に対する闘争という有名なフレーズも出てくるのだが、それはなぜそうなるのかが一歩一歩丁寧に段階的に説明されていて、決して人々が野蛮だからというわけではなかった。
むしろ、「人々が全て平等という前提に立つと」(アリストテレスと違って、人には二種類あるなんてことではなく、人は平等だという前提に立って考える立場)主張や権利についても平等であるので、誰もが誰もに主張しうる、という意味で書かれていた。この想定って、実はすごく健全ではないか。そして自らは自らの裁定者になれないという自然法の習いによって、調停するものが必要、という流れで国家という権力の存在が出てくる。

この時代の思想家の方々の平等感の前提として「神が人々を平等に作ったので」というところに、いつもヨーロッパ思想の根底を流れるのは神であって、そこが前提として揺るがないということに、神の考え方に明るくない私は、興味深いなと感じている。
ただ、前提はさておき、人々の平等を前提とした自然状態を想定したところから発したこの考えは、この本の訳者もいうように、民主主義の基礎となる古典とみることができると思う。
ただそれは、当時の空気・文脈でみた場合と、今の文脈でみた場合とでもしかしたら捉え方が異なるのかもしれない。ただ、今の時代に読んでそのような解釈ができるのであれば、それは今の文脈で捉え直すということでよいのだろうし、そのように今も今の文脈で読める・読み直せるという普遍性には驚くばかりだ。

古典は自分で読むべし、と感じた理由はまさにこの点で、最初にミルの「自由論」を読んだときに「え、これは今この瞬間のことを論じているの?今の人類の日常抱えている悩みそのままのことが書かれている」と、驚愕とともに、人類の悩みの普遍性というのか進歩の無さというのか、数世紀を経ても変わらず同じ悩みに囚われている人類に寂寥感を感じたのが始まりだ。

古典の名著はそのような時間超越的な普遍性があるからこそ名著なのだろうけど、そう考えると思想家の仕事や構想力は本当に凄まじいものだ。

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