人は親でなくても何らか育てている。けれども、成長を見越した子離れの余白は必要。

男性なので実際に子供を産んで育てているわけでもないけれども、コワーキングスペースもりおかにも地方制度の改革案にも、決していい育ての親だとは思っている訳ではないけども立派に社会に貢献できるように育てたいと考えているところはあって。擬似的に子育てをしているという感覚は何気に持っている。

芦原先生にとっても「セクシー田中さん」は子供を産み育ててきた自負があったと思う。そこをドラマ化でさらに飛躍させようとしたら、テレビ局やプロデューサークラスで考えていた育て方と違った型にはめさせられたというかいじめを受けたという方向に持ってかされたという感覚になって、その想いをネットに出したら脚本家からとやかく非難したい人から非難を受けて、いろいろ思い悩んで自殺したというニュースが流れた。少しでもキャラクターとか濃い目にしたら、ファンに見せたいキャラクター像と一致しなかったりしたのもあったのだろうし、他にもそれらを含めて作品を通じて訴えたかったこともあったのだろう。そう考えると、子供をボコボコにされたような意味でとても悔しくてつらいことである。

コワーキングスペースもりおかに関しては、元から残念にしてしまって申し訳ないというところもなきにしもあらずなので非難を受けるのは致し方がないという余白を作ってやっているけれども、余白なく絶対にどれもこれも登場人物をよく育ててきた想いをする身からすれば、自分も含めて相当に辛かったと思う。想像の倍掛けにはあったんだろう。

必ずしも自身と作品、果てはコミュニティを一心同体にするのはきついとは思うし、きついからこそ同化させていかないようにすべきとは考えてるけども(小さいけれどもこのように「コミュニティ=私が育ての親」と捉えるコワーキングスペースのオーナーやコミュニティマネージャーが少なからずいるので)、これが子育て・作品育て・コミュニティ育てとして連携をするなら、産みもしくは育ての責任者側で最低限と考えている意図や意向はしっかりと理解して尊重して動くべきだし、怒りの言葉を出す気持ちを超えて改良の言葉をかけることができるように意識していかないといけない状況になってきてるとは思う。小さい頃から普通の暴力と言葉の暴力は一緒だと思ってはいるけども、ここ数年、度が過ぎている。

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