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【#231】背筋が伸びる

 今週火曜日(4/2)、聖書神学校の入学式がありました。私は前の週も含めて3月に3度も出かけているということ、春休みで飛行機のチケットが高かったということ、また入学式で何か大きな役目を担っているわけでもないということもあり、YouTubeで参加をしました。通信科の担当なので、入学式に新入生と会うことはとても大切ですし、新入生の中には20年ぶりぐらいの再会となる方々もおられたのですが、北の地からエールを送っておりました。

 入学式と言えば、3月に卒業したHさんと6月に発行する広報誌の原稿のやり取りをする中で、Hさんが6年前にご自身が入学した時のことを礼拝の中で証しされている動画を見ることになりました。「入学式でお話しをしてくださった先生は、私たちの顔をじっと見ながら、『キリストのために苦しめますか』と問いかけられました」と。そして神学校生活を通して自分を深く見つめ、プライドを捨てられない高慢な自分が示され、謙遜を教えられ、仕えることの本当の意味を知り、悩みつつも自分が捧げるもの以上の主の恵みで満たされたこと、神以外に頼るものはないことを示された日々だったという真実な証しでした。

 「キリストのために苦しめますか」と問いかけられた説教者はどなただろうかとHさんにお尋ねしたところ、N先生だと分かりました。(今年の入学式の説教者もN先生でした)しかも、なんと私がその入学式で司会の務めをしていたのでした。つまりN先生の言葉を一番近くで聞いていたのは、私ということになります。そしてHさんは、「入学式の時、花粉症でお辛い様子の中『鼻は詰まらせても、恵みは詰まらせない』と言われた◯◯先生のお言葉も取っても記憶に残っています!」とのことでした。そう言えば、そのことを旧blogで記していました(「詰まっても詰まらせません」)。

▲ N先生のすぐそばにいる私(2018年4月3日)

 今週のディボーション「1日1章 いのちのパンを!」で、Ⅰペテロを味わいながら、キリストを信じ、キリストに従っていく恵みの深さを味わいつつ、「キリストのために苦しめますか」という6年前のN先生の言葉が私にも迫っていました。苦しむというのは、自虐的なことが求められているのではありません。私たちは自分の夢や目標のためには苦労をいといません。また愛する方のためであれば、その苦しみすらも代わってあげたいと思うものです。私のために十字架の道を歩んでくださった真実な主イエスを信じているのに、自分が安全地帯にいることを望んでいるのだとしたら、私はキリストの御足の跡を歩んでいないことになります。

 同じく今週、韓国の賛美をBGMで聞いていたら、教会で礼拝前などに流しているCDに入っている賛美が歌われていました(「십자가를 질 수 있나 / Are Ye Able, Said the Master」)。調べてみたところ、「信仰が持てたら」と日本語にも訳されていました。中田羽後訳の力強さにたじろぎそうですが、信仰の背筋がぴしっと伸びそうな感じがします。

 さあ、明日は4月最初の主日礼拝です。「畏れつつも喜びながら」(マタイ28:8)、復活の主を仰ぎます。

今日も主の恵みと慈しみが、追いかけてくる1日でありますように。

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