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わが国の現代アートプロジェクトは希望なき時代を包摂できず、ときに分断を担う忌まわしい存在になり果てるのか?

最初に
この文を書くもとになった
「あいちトリエンナーレ2019」。
同時代の「情」をそれぞれの芸術家が考え、表現した、心動かされる作品がとても山盛りに存在する、今年の大規模芸術祭の中ではひとつ抜け出した、見ごたえのある、考え甲斐のある企画です。
行ける方は早く行って是非、体験してください。
その後の思考と行動が、私たちにとっての回路を見出すものと期待。


 わが国に、前世紀の惨劇を起こした頃と同じような空気が漂い始めている。若者を巻き込み分断されるわが国。
 絶望に追い込まれている側が、なぜ、アートを中心とする芸術文化を忌むのか?
 なぜ、楽しいこと、元気の糧を得られるものが、つらいものへと変わるのか?
 社会を包摂する存在といいながら、それでは包摂されない人々が圧倒的に増えているのだ。

大正から昭和。豊かな生活の発展を実感する一方で生み出された絶望と格差

 先の戦争に向かう戦前、わが国は列強の一角を占める程の発展をみせ、豊かな大衆文化や芸術が発展する(当時全国に広がった「民藝」運動も、豊かな進歩の反映である)一方で、東北や長野県の農村地域には絶望的な貧困が起こり、子どもを売ることが日常化していた。その中には後に「慰安婦」となる者も多くあった。蟻地獄のように底がない。
 貧しさの中、それを打開する選択肢として、軍に進む若者は多く、特に軍において指導的役割を果たす英才たちは東北出身者(石原莞爾ほか)が多かった。世に広く知られる大規模な青年将校決起事件は、この絶望的な格差への憤りで突き動かされたともされる。
 すなわち、「貧しさ」と「階層」、「コネ」と「競争」が複雑に絡み合うことで若者文化の分断が生まれ、そこからこぼれ落ちた人々が声と腕力を高らかに、生存のために強い日本とアジア「共栄」という名のエクソダスを妄信(頭山満の「玄洋社」ほか)し始めた。
 結果、豊かで進歩的な文化は、この妄信によるわが国の生き残りのため、大衆の支持を背景に抑圧され、取り返しのつかない惨禍へと突き進んでいる。その一方で、その惨禍を背景に権益を蝕む者が数多く存在していた。

いま。ナイーブなアート世界ではみえない「沖縄」

 今、沖縄では、たのしいカルチャーを送りだし続ける(本島最大の歓楽・キャバクラ等街で知られる那覇の「松山」で個人的にブロックパーティ開いたり)、地元大手広告代理店の経営者が、20代を中心とする強い支持を「オール沖縄」を向こうに参院選では集めた。
 まるで戦前の東北と同じように、この地の若者は、今を生きるだけしか希望がなくなり、振り込め詐欺の大規模な末端人材の供給源(世間に衝撃を与えたNHKスペシャル『半グレ』でその一端を大きく活写していた)等になっている。それを打開して、何かを与えてくれる希望をその「オール沖縄」ではない候補に若者たちは託したのだ。
 そこで彼らが求める文化は、この島からのメッセージとして島内全国世界にマスメディア等を通じて発信されている「アート」「文化」とは異なるものである。
 ここには埋めがたい大きな溝が既に生まれている。

アートには社会包摂の力があると語りながら、包摂されないと思う人々が溢れる現実

 リベラルが、本来包摂しなければならない、展望を拓けない若者を中心とする人々に忌み嫌われ、そこから生まれる目立つプロジェクトは攻撃の対象にされる。
 2020文化プログラムへの関心の低さ、さまざまな地域でのリベラルさを表に出したアートプロジェクトの低調さ(公表人数に較べ入場チケットが壊滅的に売れていないある都市型大規模芸術祭など)というように、まさに「空気の国」らしく、静かにあらわれている。「あの人たち(だけ)がやっていることでしょ」
 「あいち」のように、「攻撃してもいい」という空気が放たれた瞬間、その静かなる絶望は、カタルシスをもとめ無数の攻撃へと変わる。

文化によって、よりよい方向することを、心からのぞむ者は、これからのやり方の再考に迫られている。

 「誰かだけがいい目をする」と冷めた空気が広がる中、虚飾にまみれつつある2020の前にそのことが露呈した。
 金持ちや出来る者がその威を誇り、こぼれ落ちたものを足蹴にする時代。先端的な文化人はナイーブさの中に沈む。
 そしてこぼれ落ちた者が持つ独自の「正義」で社会を塗り替えようともがき、絶望の中で自らの心の救済を求め、さまざまなかたちによる破滅的行為に走る。その思念が国全体の勢いとなっていく。

 まさに大戦に向かうわが国の巷のランドスケープがそれであった。

 まだ、私たちにはあの頃と違う希望がある。
 誰もが国に参加できる自由がある。
 誰もが求める教養に触れられる文化の厚みがある。
 国連が掲げるSDGsでは、人間らしい生き方をあらゆる人ができることが人類のミッションであるとして「誰も置き去りにしない」と掲げている。
 しかし、それすらも2020のようにお金の種として大事にしたり、お金持ちの道楽のように「アース様をまもろう!」というようなリードがわが国では根強い。SDGsでイノベーション!新成長だ!(お金が気持ちよく誰かに吸われながら溶けていく…)
 SGDsの目標には、まさに「誰も置き去りにしない」ための施策がたくさん含まれており、そして多彩な文化の力がとても必要となっている。
 2019年の夏休みのフロントを張るアニメ映画『天気の子』は、まさにその絶望の中に営むティーンの姿がごく普通、そしてリアルを呼び起こすかのように描かれて(いや、実際に彼ら彼女のような人たちには、私の人生の局面でも多数会い、監督とも被っているものも…)いる。世の中に押しつぶされるくらいなら、行き場はわからないが生きつづけるために逃げればいい。
 そんなメッセージが綴られる今、本当に「第四次産業革命」ともよばれる(そこで経済の話かよ。よく生きるための経済です)クリエイティブの時代を担う私たちがしないといけないのは、本来のSDGsにおける「誰も置き去りとしない」行動なのだ。

 まだ、新しいやり方は幾らでもある。なんとかし続けるほかない。
 少しでもみながよりよくなるために。

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