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みんな「檻の中のパンダ」

動物が苦手だ。怖いのだ。よって、動物には縁がなく生きてきた。(縁がなくというより、避けるように・・・というのが正しい表現かも)
その私が、な・ぜ・か・・・・去年の夏にパンダにはまった。
あるラジオでだいぶ昔に語られたエピソードから、アドベンチャーワールドという場所にはパンダが沢山いるらしい。そして、そのパンダは1家族。子宝に恵まれているファミリーだ。ということだったのだが、なぜか、検索してしまったら動画ができてたので、パンダという動物をみてみた。
見ると、なんだか奇妙な感じがした。
Youtubeにオススメされるがままに、どんどん見ていった。
そうしたら、一頭のパンダがすごく気になった。
その一頭のパンダを今度は検索してみた。
なんだ、なんだ!これは人間じゃないか~?!と思ってきた。

パンダという動物は、個性的だ。みていくと一頭ずつ全く違う個性と見た目をもっている。
そんな話を友人にすると、「奇跡だ!動物を鑑賞している・・・」といわれる位になった。そして、その夏はパン活ですぎていった。
秋になってパン活は続いた。
分析体質なため、パンダについて色々調べた。映像もいっぱいみた。
もうこれは、生を見るっきゃない!とついに冬に会いにいってきたのだ。

そこで感じたことは色々あるのだが・・・
(それら一つ一つが一本のコラムになりそうだ)
今回は、動物というものにこれまで一切ふれてこなかっただけに、動物園という場所の異様さと不思議さを感じたことをまとめてみよう。

パンダは、広い運動場をもらっている。(動物園の中では好待遇だ)
運動場では自由に動き回れる。
しかし、パンダ舎では檻にいれられている。(猛獣扱いのため、間接飼育しかできずどんな時も檻や柵の中にいる)
生まれた時から動物園のパンダ。
この運動場とパンダ舎という世界しか知らないパンダ。
それはパンダにとってどうなのだ?

と、強く疑問に思った。

そして東京に戻ってこの命題について考えていたら、あることが思いついた。
あ、私もパンダと同じだ。
自由に動き回っている。生きている。と思っているけれども、

東京という運動場の中にいるだけではないか。
そして、家という檻の中で眠る。

パンダにとってどうなのだ?制限されて不幸ではないか?

という疑問は、まっすぐ自分にむけられ、はたまた人間にむけられた。
私たち人間は、「檻の中にいるパンダ」と同じなのだ。と・・・

ただ違うのは、可哀想なことにパンダには意思決定する権利がないので、制限の中での自由しか許されていないが、私たち人間は、自分で意思決定できるのだ。
ならば、制限された運動場の中だけに留まる必要はない。

どこで生きるのか?

そこから、根本的に選択することをしないで人間といえようか!!!