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2023年の映画、マイベスト20選

国の内外で、にわかに世界が闇に閉ざされていくかに思える年でした。人間という種はどこへ向かうのでしょうか。そんな中、映画には何が出来るのか、考えざるを得ない1年間だったように思います。

60分前後の中編映画がいくつか入りました。ミニマルな映画という発想ではなく、映画にとってあるべき時間の枠を考える契機を与えてくれるものとして、考えを巡らせます。

順位をつけていません。タイトルはあいうえお順に並べています。私のつけた順位が読者の方に意味があるとは思えないのと、私自身、ある年に下位に順位づけた映画を、今年再見したら自らの愚に気づかされるという経験もあったからです。

『悪の階段』 鈴木英夫監督(1965)
強盗グループのメンバー同士が葛藤を繰り広げる空間に圧倒されます。工事現場や階段といった宙吊りの空間(美術は中古智!)には、一瞬も気を許せない緊張が張り詰めている。画面を圧倒的に支配する影の中での騙し合い殺し合いの凄まじさ。悪の跋扈する映画世界を日本犯罪映画史上に黒々と刻印した、鈴木英夫の傑作です。

『アシスタント』キティ・グリーン監督(2019)
ヒロインのオフィスでのデスクの位置が、職場の中で身の置き所のない彼女の存在を表しています。片隅に追いやられ、孤立と孤独に陥っていく女性を、この映画はあえて画面の中心に据え続けます。ハリウッドのMeToo運動へと発展していく素材でありながら、それをあくまで個の物語として捉えることで、この映画は強い普遍性を勝ち得ているのです。

『あずきと雨』 隈元博樹監督(2023)
冒頭、ヒロインが同居する彼氏に「出てって」と言いますが、その口調がやたらと穏やかなのにスカされます。とにかく言葉と行動とがズレまくっていて、でも、その負のアクションが映画をドライブさせていく。彼女の働く不動産屋の空間も、「空」とか「凝視」とかのこの映画特有のモティーフをちゃんと映画に持ち込んでくるんですね。

『エドワード・ヤンの恋愛時代』 エドワード・ヤン監督(1994)
ワンフレームに同時に収まりながら必ず諍いをしている男女二人。二人のヒロインの体形、髪型、服装のあまりの対称性。自動車の発進や停止に込めた様々な意味。最初の30分、高層階の室内から外に出ないカメラ。ラストに近づくにつれどんどん暗い影の中に入っていく人物たち。あらゆる場面に映画が充満する稀有の映画と言えましょう。

『上飯田の話』 たかはしそうた監督(2021)
多方向から人が集まってくる団地の風通しのいい空間なのに、そこには土地の歴史がわだかまっていたりもする。その空間の疎と密が人の動きに従って映画に丁寧に掬われていくんですね。そこでの女たちのしたたかさに比べて、男たちはあくまでノンシャランに浮遊していく。その二つの視点に導かれて、街が心地よく開かれていきます。

『義父養父』 大美賀均監督(2023)
鰻を食べるシーンが二度ありますが、その演出の繊細さに息を呑みました。一つ一つのゆっくりとした所作と、人物たちの座る位置からくる視線の交わし合いに、見る者の眼をくぎづけにするものがあるんです。手が顔よりも雄弁にものを語る場面が多いのはブレッソンの映画を思わせますが、ここではその細やかさに表現としての強さがあるんですね。

『郊外の鳥たち』 チウ・ション監督(2018)
ビー・ガンと並ぶマジックリアリズム的手法で中国の新興都市を描く映画。時間はまっすぐ流れていかず、不意に別の時空に接続する。同じ名前なのにこの青年は果たしてあの少年なのか?人の歴史、街の歴史が不連続かつ重層的に積み重なります。土地測量士という主人公の職業が土地に積み重なる時間を眺める視点を提供するんですね。

『殺人者たち』 ドン・シーゲル監督(1964)
盲学校で盲人たちをいたぶる殺人者の狼藉を見せる冒頭から、暴力が滅茶苦茶に吹き荒れてます。オフィスやホテルの一室、サウナの中といった平穏な場所に傍若無人に押し入って人を痛めつける。その残虐さにうえっ!となりながらも、目が離せない。ドン・シーゲルは都市に人間の獣性を解き放って、観客をジャングルに放り込んでいくんです。

『SISU/シス 不死身の男』 ヤルマリ・ヘランダー監督(2022)
冒頭の長い時間、主人公が鶴嘴(つるはし)で穴を掘ってます。土地に眠るお宝を掘り出してるんですね。その鶴嘴を彼は映画を通して肌身離さず持ち歩いて、やがてドイツの一個小隊との血みどろの闘いの武器とします。舞台は水中から空中へと縦横に広がるけれど、その唯一の得物がこの映画のアクションを強く硬く鍛え上げるんですね。

『突然の花婿』 ダグラス・サーク監督(1952)
ガウン姿で二階の自室から逃げ出すトニー・カーティスが素晴らしすぎる!コーエン兄弟は思わずそのアクションを『ミラーズ・クロッシング』でアルバート・フィニーに受け継がせちゃったりもします。どたばた喜劇だけれど、恋人たちがどんどん周囲から隔絶していく様は、まぎれもなくダグラス・サーク的メロドラマの構図の中にあります。

『日本侠客伝』 マキノ雅弘監督(1964)
高倉健の目が何をどう見るか。そこだけに映画の全てが集まっています。出所してきた健さんが組の小頭になれと言われて一瞬、錦之助と目を合わせて決心する。三白眼で相手を睨みつけながら啖呵を切る。果ては殴り込み場面での周囲への壮絶な目線の投げかけに至る視線の映画。富士フィルムの発色には驚かされます。

『バーナデット ママは行方不明』 リチャード・リンクレイター監督(2019)
二度蹴破られる扉はヒロインの心の閉塞の象徴ではあるけれど、二度目で画面の奥に開いた窓が現れるところに、はっと胸を衝かれます。光満ちる南極の風景も逃亡後の解放感を示すと同時に、あくまで先へ先へと視線の向かう場所として存在している。ヒロインが建築家であるのはそこに理由があります。あるべき空間を希求する建築家の視線が作り出す映画です。

『ファースト・カウ』 ケリー・ライカート監督(2019)
溝口健二の『雨月物語』が好きだというライカート監督。なるほど。茂みの中の出会いの瞬間から友情の物語をしっかりと映画として紡ぐ手際に、日本の名匠のたくみが宿っています。作中で描かれるいくつかの小屋の描写からも、19世紀の森の時間と空間がしっかりと伝わってくる。手織りの布のような丁寧なものづくりを、映画に感じる逸品です。

『二人静か』 坂本礼監督(2023)
映画は空間を描く芸術だということをしっかりと伝えてきます。子を奪われた夫婦がビラを配る駅前広場から彼らの住まう部屋の中まで、広角レンズの表現力をまざまざと見せる映画です。空間の広さは、しかし心の荒涼を描くだけでなく、夫婦が同じ目線で河を眺める場面では、言葉にならない救済を映画にもたらしてくるのです。

『ほつれる』 加藤拓也監督(2023)
カップルの住居のキッチンにはテーブルがありません。彼らの会話も、廊下や玄関といった人が通過していくための空間で発生する。走行する電車や自動車内での会話が多いことも、ヒロインの身の置き所のなさをどんどん際立たせていく。成瀬己喜男映画の哀しい女性がこんな風に、現代の世界を彷徨い続けているように思えてきます。

『優しさのすべて』 安達勇貴監督(2021)
アパートの四角い部屋が、恋する男女に起きる化学反応を観察する純粋培養のシャーレみたいに見えてきます。そんな密閉された空間のドラマの一方で、二人が無人の夜の商店街をどこまでも歩いて行く場面があります。絡み合ったり離れたりする二人が空間を伸びたり縮めたりする距離の戯れに、うっとりと魅せられるわけです。

『夢の涯てまで』 草野なつか監督(2023)
カメラは目の前に存在するものを捉えるためのものですが、去った人の面影を捉えることは出来るのか。それを映画として問いかけようとする営みがあるのだと思います。人を喪うという経験が個人のレベルで語られ始めながら、それがやがて、もっと大きな主語で物語られる何かに変わっていく経緯も、この短い映画の中にはちゃんとあるのです。

『レッド・ロケット』 ショーン・ベイカー監督(2021)
タイトルは赤い男根を意味します。それを生業(なりわい)の具とするポルノ映画男優の浮き沈み。ドナルド・トランプが大統領選で勝利する2016年を舞台に描くことで、その寓意は明らかですが、クズ男を演じたサイモン・レックスの食えない愛らしさに映画が生命を灯します。コンメディア・デッラルテの道化師的な存在が、この世界の混沌を照らすわけです。

『Rodeo ロデオ』 ローラ・キヴォロン監督(2022)
バイクの強奪シーンがハリウッドの西部劇のように描かれます。そのアクションの主体が女性であることは、しかし、フェミニズムの標榜には向かわない。もっと根源的で神話的な女性の存在が突出してくるのです。映画が今ある地点からどんどん逃走していくような作られ方をされているのも、そのことと関係しているのだと思います。

『ロング・グッドバイ』 ロバート・アルトマン監督(1973)
これも逃げ去っていく映画。ジョン・ウィリアムズのテーマ音楽が様々な楽器や声によって変奏されていくし、カメラも絶えず横に移動し続ける。フーガのように、今ある地点から映画が逃げていくんですね。主人公のマーロウが追い続けるものはどんどん彼の前から逃走していく。探偵映画の基本的な構造が露呈している映画、と言うこともできましょう

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