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クズがゴミ箱に捨てる手紙。

一瞬の不意を突かれた。動揺して、どうしようもない対応をしてしまって、自分の器の小ささを見せつけられる。ピンチに弱い気がする。ピンチはつまり予想外の出来事のことになる。予想外の事態では前例がない。

ピンチの時に落ち着くためには、2つ方法がある。そもそもピンチと重なるような経験を大量に既に済ませておいて、本質的に「ピンチ」ではなくすること。もう一つは、「ピンチ」をたくさん経験することで、ピンチ自体を予想通りの出来事にする。

どっちもひどく酷く荒い発想なのだが、場数を踏むしかない、ということになる。


最近あったピンチの話をすれば、通ってると思っていた博士課程の試験が落ちていたり、仲良いと思っていた人に実は彼氏というか婚約者がいるんですと言われたり、100万単位の損失を作ってみたり、だろうか。

別に何のことはない日常である。またか、ってなることばかり。いや別にダメージはいっぱい受ける。


こういう酷な出来事が起きると色々なことを考えさせられる。未熟さとか、愚かさとか、ただ痛感させられる。


今日、久しぶりに痛感させられた。自分は特に好きなものは存在しないことに。「博愛はつまり、何も愛さないことである」と思っているし、昔友人に偉そうに言ったのだが、でも実のところ博愛なのは自分なのではないかと悶々とする。

自分のことしか興味ないよねって、昔言われた気がするなぁ。
どうせ私たちのことなんてどうでもいいし、なんとも思ってないでしょ、とも言われた気がするな。
常に人のことを値踏みしてますよね、って言われたことも。
特定の他人ではなくて人間一般に対してしか興味ありませんよね、とも。

どれも正しいが、少し違う。自分にも興味がない。別に、自分という存在が、あってもなくてもどうでも良い。生きることに興味ないのと同じくらい、死ぬことにも興味ない。結果として、現状維持を選ぶ。「生きていない、死んでいないだけ」である。このフレーズは最近亡くなってしまった人が使っていた。酷く危ない感覚であることだけは知っている。いつだって振り子は倒れる可能性を秘めている。さすがに親の存在が自分を押しとどめているような気がするので、その点では全くもって安全圏なのも自覚できる。一方で、振り子を傾ける方法も容易に想像がつく。

自分を含めて、どのひとも大したことはないと思っている。舐め腐っている。「どうも君は友達に似ている。仲間作りに苦悩し、やりたいことが全然できず辛そうだった友達に似ている。そうなって欲しくない」。そんなことを熱く訴えられたことがある。あれは強い言葉だった。背中を預けられる人っているのだろうか。どこにいるのだろうか。知らない。全く知らない。

「誘われたら原則断らない」ことを決めている。基本的に早いもの順で日程を埋めるようにしている時期があった。コロナで最近は空きしかないのでどうでも良いが。誘われた時に、この人とご飯行くことに価値を感じるだろうか、とは考えてはいけない。考えてしまったら最後、誘いの9割以上を断ることを知っている。自覚している。

自分の嫌なところを思い出してしまった。他人をどうでも良いと思っていることを。自分を棚上げにしていることを。


自分が大して面白くもないやつであることを誰よりも知っている。高校生の頃に、「先輩って最近おもしろくないですね」って言われたんだけど、これが結構ダメージで。確かに、特に何も面白くない。いやもうどこが面白いのか全然わからない。面白くないこともないと思うけど、いややっぱり面白くない。

おもしろいかどうかは、結果が全てを示している。誰かに誘われる、ということがあまりに少ない。自分から誘って、付き合ってもらうこともしばしばなのだが、誘いに乗ってくれるのは、誰の誘いでもほとんど断らない人だけ。いやーほんと、一緒に遊びに行く人たちの、人気者たるや半端ない。自分の人気のなさを痛感させられる。

でも多分、人気がないのには、面白くない以外にも理由はいっぱいある。相手が楽しめていない、満足できていない、求められていると思わないからである。直接メッセージで、「一緒にご飯に行こう」という話になってから、具体的に日程が決まらずに流れることが立て続けに起きている。昔もあったよ。この人は自分にそんなに会いたくないんだな、と思われてしまったのかもしれない。そうなのかもしれない。

それが一番の心当たり。


ここ数年で、何でこんな会話をしているんだろうと思うことが多すぎる。なんだこいつ、と思っているのにもかかわらず、「良いね」「素晴らしいね」と口走っている。言ってしまってから、そんな自分に気付く。お世辞や愛想を振りまいているように見えて、透け透けである。お世辞にしか聞こえないことばかり。お世辞ってわかっていても嬉しい時はあるだろうが、軽薄に極まる。

とはいえ、これをしてしまっている根本の原因は、会話を深堀することを放棄しているからだ。ここでまた「興味がない」に戻るのかもしれない。コーヒーの話になったらいくらでも深堀りをしている自分に出会う。そうすると、友人の話を十分に深堀していないことに同様に気付く。

一方で、コーヒーなら、いくらでも質問をする糸口を知っているが、どうもどこを深堀りするかパッと思いつかないことが多い。無能だなあと思う。水平思考ゲームが不得意なんだと思う。不得意だったなあ。自分で勝手に物語を想像して、それで満足をする。具体的な話を聞くこともない。さらには、具体的な話を求めてもいない。

これは直そう。想像をしない。これに尽きる。

想像をしない。

予想もしない。

憶測をしない。

妄想をしない。


あることを、あるままに。

改めて考えると、あれ、自分って科学的思考が全然できてないんじゃないか。やばいな。終わってるな。


ううう。うう。

書きながら、酷く残念な事実に気づいてしまったので、詰まってしまった。


とはいえ、これは直せる。努力してみよう。工夫してみよう。後日振り返りしよう。


どうもここまで、理性的を気取っている気がするが、気取っているだけダサい。ダサいんだけど、ダサい文章を続けてしまう。(これを書いておけば許されると思ってる・・・はあ)

改めて、動物的に振る舞うことほど幸せなことはない。考えないで済むことはとても幸せなことだと思う。現代では、選択肢が多いほど良い、みたいな雰囲気もあるが、生まれによって人生がほぼ内定しているような生き方は実は楽だ。実は多少不満があっても楽だ。何より、自分の責任ではなく、生まれの責任にして気を紛らわせることもできる。何を選ぶかを苦悩する必要もない。選ばなかった選択肢に反実仮想を繰り広げることもない。

お店で服を買う時に、色のような服の選択肢は4つ程度がいいと言われる。それより多いと、逆に疲れてしまう。だから、いかに自分の選択肢が4つ程度になるように人生のレールを選ぶか、レールを敷いてくれる環境に身を置くかが重要になる。

4つくらいなら直感で選べる。考える必要がない。考えることには、本当にいいことがない。コロナ になって、家にこもって、時間ができたら、余計なことを考える人が増えたと思う。もちろんこんなことを書いている自分もまたその1人である。

誰だかが「人は考える葦である」と言っていたが、考えることは不幸しかない。考えることは、現実には存在しないものを脳に刻む。それを、想像といい、妄想という。これさっきやった。復習ですね。

妄想は現実との乖離を生む。現実との乖離は、社会的な問題を引き起こす。


では、考えないとは、どういうことなのだろうか。

考えないとは「動物的」に振る舞うことだと思う(行動主義的な雰囲気とか感じる表現)。堅苦しく言い換えると、報酬に素直になって、抑制系を働かせないことである。それっぽい表現しているけど、雑すぎる。理論的じゃないのでこれを「考える」と言います。

ともかく、性欲・食欲・睡眠欲をはじめとして、欲求に素直になることである。この3大欲求を満たされる選択肢を選ぶことである。マズローの何たらではいろんな欲求が書かれている。別にこの欲求たちはピラミッドになっている訳では無いが、承認欲求や自己実現欲求などは存在する。だけど、これは3大欲求には直結しない。そんな雑多な欲求は無視して、3大欲求に素直になろう。

周りを見回してみなさいよ。モテるやつって、性欲に素直な側面強くない?だって「モテたいじゃん」「やりたくないの?」って言えるやつの強さってあるよね。ここで、いや性欲に振り回されて彼氏・彼女に溺れたり、食欲に振り回されて太っている人がいるだろうと、言いたい人もいるでしょう。でもよく見てみ。彼ら彼女らは、総じて幸せそうじゃない?苦悩しているけど、人生をフル活用している気がしない?そんなのは違う、何か違う、と独り言を繰り返しているより、全然生き生きとして感じられるじゃない。


前はもう少しマシだった時期もあったのではないだろうか。いつかな。大学2〜4年生くらいの時は、かなり自信にあふれていたと思うんだ。自信というのはとても魅力的な雰囲気を振り撒く。この頃は、欲求に素直だったな〜。なんて。


承認欲求や、自己実現欲求をこじらせると何が起きるか知ってます?自己暗示という魔法が使えるようになるんですよ。これは童貞が30歳で到達できるものだが、彼らが使える魔法は詰まるところ「自己暗示」のことなのです。


ヒトには自己暗示という魔法、すなわち自分の理性を覆いかぶせるベールがあって、いろんな感情を無かったことにする。まずは、欲求に蓋をする。「したい」をなかったものにする。

次に「嫌」をなかったものにする。どんなに嫌に思っていても、その「嫌」という感情を無かったことにする。これは恋愛では特にそうだけど、寂しさや恥ずかしさ、他にもいろんな場面で現れる。

仮に夢から覚めると何が起きるか知ってます?夢から覚めるのは恋愛でよくある現象です。つまり「嫌」が目に入ってくる。溜まりに溜まった「嫌」が一気に押し寄せてくるのでとんでもなく不快になる。

最近、思い出させられた「嫌」について書いてみようと思う。あくまで例え話なので、本当にこんなことある訳ない。

「ラーメンが好き」と言っていた人がいて、自分もラーメンが好きだから、一緒に美味しいラーメンのお店に行こうと持ちかける。いざ袋を開けてみると、ラーメンを食べ歩きをしているわけでもなければ、詳しい人にとって常識であることの何一つを知らなかったら、なんか違和感を覚える。この人は本当に好きなのだろうかと。自分が知っていることを話し始めてみると、その人は全てをへぇと言って聞いてくれる。話している身としては何だか心地いので流してしまうが、語りが一方通行で全然会話にならない。常識だと思って「豚骨ラーメンって美味しいよね」と振ってみると「豚骨ラーメンって、そんなものあるの?」と言われてしまう。絶句せざるを得ない。

ここでの「好き」は興味があって調べたり考えているということではない。ただの「好み」。「好み」でしかない。

「好き」と「好み」は実は全然違うということになる。いわゆる「にわか」になるのだろう。この人と、何かを一緒に堪能することは基本的に敵わない。ただの付き添いに過ぎない。個人的にはパパ活の感覚がわかってしまった気がして少し嫌になった。

こうやって、ヒトの物足りないところを考えてみると、いかに自分が無知であって、詳しい人に絡みに行こうとしていたのか反省させられる。不勉強にも程があるというもので、申し訳ない。


誰かと会っていて、自分が価値提供できているのか、という視点は大事だと思う。会う価値を感じない人と一緒にいたいと思う人がいるだろうか。話を聞いてくれる、話が面白い、話に情報としての価値がある、などは代表例だろう。どんな人間関係も、なんらかの価値提供が伴っていないと持続しにくいことは確かだ。

一方で、価値提供できているかをずっと気にしていると息が詰まる。長い付き合いの友人相手に価値提供できているかを、考え続けるのも辛い。「今日は価値提供できなかった」と感じたら、次はないかもしれないという恐怖に直面させられる。次があったら、挽回しなくては、となる。

信頼関係が築かれている間柄だったら、「そういえば、最近はお世話になってばかりだから、久しぶりに何かしてあげよう」くらいの感覚がいい。間隔がいい。


そんなそれらしいことを言っているが、上の方に「誘われても9割以上断る自信がある」って書いてなかったか。価値を感じていないけど誘いに乗っている人がいるということになる。

そして、まさに今、もっと断っちゃおう、と目論んでいる。


「あなたは、周囲の人の平均である」「あなたは、仲がいい5人の平均である」といわれる。人間関係を変えることは、自分を変えることである。自分を変えたい時にやるべき最初のステップは、なりたい自分ときちんと関わることである。

「人間が変わる方法は3つしかない。1つは時間配分を変える。2番目は住む場所を変える。3番目はつきあう人を変える。この3つの要素でしか人間は変わらない。最も無意味なのは「決意を新たにする」ことだ」と聞いたこともあるんじゃないだろうか。

人間関係を変えるのは3番目だったか。順番に見ていくとして、人間関係を変えることなんてできるのだろうか。地続きで人間関係が変化していくなら、今まさに自分に近い人たちで周りが固められていて、類友理論から、その自分に近い人たちが入れ替わることはない。

なので、どこかに、不連続な人間関係の境目を作らなくてはいけない。会社を辞めるとか、サークルを変えるとかが一般的かもしれない。少し面倒かもしれないけど、労力がいるかもしれないが、ちゃんと辞める・異動する必要がある。最近は自分は仕事以外の人間関係の方がメインなので、仕事以外を切り替えることが求められる。

自主的な活動はやめましょう。

誘う友達を入れ替えましょう。

新しい知り合いを作りましょう。

少しずつ入れ替えましょう。


とはいえ、新しい知り合い増やさないと。やば、どうしよう。コロナだし不用意に出れないけど、どうにかしないと。あれ、これって「決意」じゃない?これじゃ変わらないよ!!

っていうのが、上の有名なフレーズの堂々巡りするところ。

まあ心配ないさ、今日友達1人減ったのだから、1人入れ替わるよ。自動的に。。

だから、簡単な方法は、衝突したり、ひどい失態を晒すことです。おすすめしないけど、簡単。

流石にこれでは血が流れて生きていけないし、余計な迷惑も振りまいているので別のことを考えよう。とりあえず、誘われても、断るようにしよう。誰でも日程調整はしない。誰と会うかは、欲求に従うのが一つ。もう一つは、価値提供ができそうか・価値提供してもらえそうか。そして、自分の性格・癖の中に、その人が入り込んできても良いと思えるかどうか。

ここまでの色んな要素を踏まえてるでしょ。


ここでまとめ。

・余計なことは考えない。想像も妄想もしない。

・三大欲求に素直になる。

・人間関係を整理する。端的には、会う人を絞る。会う人は、この人はなりたい自分を少しでも体現できているか、で決める。



ただの個人的な振り返りでした。

ゴミ箱に入れたいですね。あー恥ずかしい。

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