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文章を書けなくなってきた。

noteが少し離れていた間にだいぶ変わっていた。

「ご自由にお書きください。」
なんて表示されても何を書けばいいのか。

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今学期は、毎週A4に収まるように1本、テーマに合わせて文章を書いてきて、それを読み合っておすすめ作品を選ぶ「コラムランド」という授業のお手伝いをしている。

1~4年生が60人くらい履修していて、毎週50本近い文章が提出される。
お題は、「季節」や「夜」だったり、「たゆたう」「成功」「左」と様々だが、なるべく文章のバリエーションが広がりそうなものを選んでいる。(成功はどう転ぶか気になっていたけど、やっぱりハズレだった)

誰もが作文が得意と言わんばかりの様相で文章を提出する。自慢げな顔で当日現れて、いろんな作品を読み比べている。
こんなこと書いて、万一読まれたらどうするのだろう。ともかく、1週間で書いて、さほど推敲もされていない文章しか書けないのに得意気なのだ。不思議でしかなたい。


詰まるところ、
文章を書くにあたって、推敲が重要である、という基本のことが理解されていないのだ。

3回目くらいに先生が「推敲してね、文章が良くなるよ」と全体にアドバイスのように話すと、教室の端の方から「なるほど」と声がした。
毎週コメントシートを書いてもらっているのだが、「何度も書き直すのもいいが、1回目で書いたなりにいいことがあると思う」と書いている人が何人かいた。

正直どうして推敲を重ねたものが、全く推敲されていない文章に勝ることがあるのだろうか。理解できなかった。そう考える人がこんなにいることが、未だに理解できない。


推敲の価値がわからない、とはどういうことなのか。

推敲の本質は、情報収集を繰り返し、構想を繰り返し、細部の修正を繰り返す。推敲は、一つのものを真剣に練り上げていく過程。
一つのものを真剣に練り上げていく。向き合って、考えて、どうやっても自分の限界を迎えていると感じていても、それでもなお考え続ける。その先に自分の成長も待っている。

そんなことは作文に限定されない。

努力一般、成長一般についても同じことが言える。

目の前の取り組んでいることに、諦めずに、途中で投げ出さずに、ひたすらに向き合うこと。それが努力するということで、成長するための基本的な方法。

つまり「推敲の価値がわからない」ということは、自力で成長のための努力を積み重ねていない人のことなのだろう。
確かに、高校時代は参考書を与えられて、ひたすらページをめくり続けて、成績は良くなり偏差値も上がったことだろう。だがその核心たる「成長のために何をするべきか」を考えてはいない。

彼らの中には、徐々に気付き始めている人もいる。
どうもこのままではダメみたいだと。


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文学研究している先生と話すタイミングがあった。
こんな授業をしていると。

すると、「そんなパンドラの箱を開けるようなことをしてしまうなんて」と言う。衝撃的だ。続ける。みんなに自由に文章を書かせてしまって、もし空っぽなものが出てきてしまったらどうすればいいのだろう。もう引き返さないじゃないか。自分にはそんな授業は手に負えない、よくやるよ。

至極真っ当な意見だと思う。
中身のない文章は見る人が見れば明らかだ。

文章には、内容があって、構成があって、表現がある。実際に提出されたものを見ると、表現しか目が届いていないものがあまりに多い。構成なんてものは認識されていない。内容は大まかにしか考えられておらず細部には全く行き届いていない。表現しか考えられていない文章は、落ち葉のように栄養が届くことも光合成をすることもなく、すぐボロボロに崩れる。焼き芋を作るためならばいい燃料になるかもしれない。

それでも、いかに空っぽでも、書き続けなくてはいけない。
どう書くのかはとても重要だが、書かずして成長することはない。一人でもあの中で、自分の分を弁えられる人が現れて、上達への道にたどり着けばいい。どう書くかを考えて、より早くより良く成長してくれたらいい。


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とある学生の相談を受けた。

上達したいと言う。

上達はしたいのだが、それにあたって、テーマを変えてたくさん書くことをしたいのだと。書き終えたタイミングでは、これ以上ない完成度で文章が書けている自信があるので、書く練習は別のテーマでするのがふさわしいだろうと。だからテーマをくれと言われた。

これこそ「どう書くのか」問題。
書いたタイミングでは、これ以上のものは書けないと思えることもたくさんあるだろう。書ききったタイミングでまだまだと思える人は事実として知ってしまっているだけで、その瞬間瞬間でできうる最高のものをアウトプットしてる。

テーマを変えないといけないなら、そのテーマではその作品を超えることはないことになってしまう。一からまた同じテーマで書いてもいい。複数書いた中から、一番いいものを選んでも、表現を組み合わせてもいいだろう。作品をよくする方法はたくさんある。

実は、問題はそれだけではない。
文章の書き方・表現技法についての知識、いい作品との出会い。あらゆるインプットが不足していた。それゆえに、自分の作品が完璧から見たら遥か手前に、完璧が見えさえしない位置に存在していることに気がついていない。(そもそも完璧なんて存在するのかわからないが)

自分の実力を測るには、いいものの存在を知り、その存在への理解を深めることが入り口。
良いものを知らない状態なら、それ以上成長する道は途絶えている。良いものを知ると、現状のレベルがゴールではなくただの通過地点になる。あとは一歩ずつ前に進んでいくだけで良い。


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書くことは大変なこと。膨大なプロセスを経てようやく一つの良いものが生み出される。多産であることは一つの価値だが、クオリティを安定させつつ、多産であり続けるのは並大抵のことではない。そもそも自分から中身が一つずつ取り出されて、補充を怠っているといつの間にか空っぽになって何も書けなくなる。最近は自分から中身がすり減ってきている気がしてならない。豊さから遠ざかっている感覚で、書けることが見つからない。いや書く必要も元々無いのだが。

こうやってようやく一つのテーマを見つけて書いているが、ここに至るプロセスは長かった。色んな人に部分部分の説明をして、思考の整理をしていた。

とはいえ、今は書く衝動に駆られたものの時間が無いので、推敲していない。人のことを言えたものではない。


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完全なおまけ。
ついでに言えば蛇足。あるいは次回予告。

書いたことを少しだけ一般化しようと思う。
そんなことを書いてないのに。

良質で豊富なインプットと
深く研ぎ澄まされた思考と
繊細で優れた表現技法が
アウトプットの質を支える。


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ではでは。

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