見出し画像

【壁シリーズ第1弾】

ベルリンの壁が崩壊した34年前、僕はロンドンでこのニュースを知った。西の世界と東の世界が融和していく姿を想像して、胸が躍ったのを記憶している。しかし、ベルリンの壁はなくなったものの、東側住民の意識の壁は根強く残っているというし、とくに経済格差という壁はいまだに存在するし、安い物価のベルリンにはアーティストも多く渡り住むが、同時に近隣諸国から移民難民が増え続け、見えない壁がますます高くなっている。

四方を海に囲まれている日本にいると、ふだんの暮らしの中で国境を意識することはない。世の中の大多数の国は国境が接していて、そこには壁が存在している。

人間社会には無数の壁が存在している。国境や県境、隣の家とのフィジカルな壁だけでなく、人種、宗教、主義主張、権益、利益、犯罪、争い、あらゆる差別や偏見、誹謗中傷など、目に見えない壁が縦横無尽に張り巡らされている。人間どおしの付き合いにも壁があり、家の中に引きこもって外の様子を伺って、安心な時だけ壁の外に出る。人間は壁がないと生きていけないという錯覚すら感じてしまう。

外敵の脅威から守られ安全が保障され、壁の内側の人たちと同じグループに帰属していると感じることは安心である。管理する側からすれば、一律に線を引くことで、社会秩序を安い管理コストで守ることができる。ルールを決める側も、それを守る側も、壁を設けてそれに従ってさえすれば楽ができる。だから壁はどんどん広がり、どんどん高くなる。

壁が広がることで失われるものは「自由」だ。自由とは水のようなもので、無くなったときに始めて大切さを知ることになる。

不寛容な社会になったと言われて久しいが、社会が進化するということは、見える壁、見えない壁がどんどん低くなって、見晴らしが良くなる社会なのだと思う。そんなリベラルで寛容な社会がいつになったら訪れることだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?