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ハンブルクを飛び出し南独→ライプツィヒ→ベルリンを移動してみて見えてきたこと

大学でテストの方もひと段落しまして、2週間ほど旅に出ていました。

中々密度の濃い旅で、久しぶりにハンブルクから離れたので少し記録に残そうと思います。

旅のルートは、ハンブルク→ストラスブール(南仏)→ディジョン→ストラスブール→カッペルローデック(南独)→ライプツィヒ→ベルリンでした。フランスについては気が向いたときに別途書こうと思うので今回は省略します。

さて、カッペルローデックとはどこぞやなという感じですが、人口5000人程度の小さな村です。私はここの村に10年前留学していたことがあり、今回はホストファミリーを尋ねに行ってきました。

ワイン畑に囲まれた、自然、平和と何もないが共存している村です。電車は1時間に1本で、日本の田舎と大して変わりません。

隣町の駅に降り立ち、まわりの人の話し声を聞いた瞬間・・まず一番に思ったのがうわっこの人たちほんとにズーズー弁しゃべっとる!!

10年前に滞在していた時も、方言のひどさには悩まされましたが、しばらくハンブルクでの標準ドイツ語に慣れ切っていた私には改めて刺激でした・・・本当にひどいとしか言いようがないんですが、これは個性です。というか、お笑いです。

どんな方言かというと、オフィシャルにはバーディッシュ(Badisch)といって、なんでもシュが濁るのが特徴です。

例えば、So ist es(ソーイステス、そういうもんだよ)はバーディッシュだとSo isches(ソーイシェス)に合体します。なんて簡単なんでしょう!

方言というのは話し言葉であって、なかなか書き言葉としては使われないのが常ですが、この方言を使って書かれたご当地雑誌もあります。ドイツ語ネイティブでも読めないレベル、あるいはなんとなく言ってることはわかる気がするレベルなので読みの方が余計に難しいのかもしれません。ちなみにこの方言はバーディッシュをベースにして、その村々のアクセントだったり単語が加わるので更に難易度が上がります。一山超えたらもちろんアクセントも変わります。

カッペルローデックはワインの産地で、毎年セクトから白、赤ワインまで幅広く生産しています。このワインは魔女のワインという名を冠していて、その名の通り魔女伝説に由来しています。

Hex vom Dasenstein の物語は、1356年の有名な伝説に始まります。

高貴な生まれの美しい乙女が、農夫の息子と恋に落ちた。ロデック城の領主はこの恋を許さず、自分の娘を谷に追いやった。家も土地もない彼女は、農家の息子に疎まれ、それ以来、ダーゼンシュタインで暮らすことになった。

彼女は岩窟の周りにワインを植えた。彼女は人々に様々ないたずらを仕掛けたとか。そしてすぐに彼女は「ダーゼンシュタインの魔女」と呼ばれるようになった。そうして、高貴な赤ワインには、彼女の名前が付けられた。今でも、この伝説のワインを飲み過ぎると、「ワインの中に魔女がいる!」と言われるとか。なぜなら、HexはHexのままであり、伝説のワインだから。

このワイン生産も、実はゲノッセンシャフト(Genossenschaft)形式をとっていて、オーナーとブドウ畑の所有者が株主的な関係を築き、運営しています。そうして村民のサポートがあったからこそ1935年からずっと続いているわけです。こうした話も10年前にはいまいち理解していなかったので今回は新たな発見となりました。

その後カールスルーへの近くの友人のもとへ行きました。(彼は中国人ですが、ドイツのマスター取得後結局そのまま残り、結婚し、子供2人と動物2匹の面倒を見ています。)購入した家を見せてもらい、改めて、この広い家は東京や上海じゃ想像だにできないよねという話になりました。おそらくアパートを買うのが関の山なのでは?と思いますが、それも別に悪くはないけれど、広い庭付きで、地下室+3階だて、アウトバーンから5分、すぐ近くには子供が遊べる森・・などなど子育て的な観点でいくと最高のロケーションなわけです。彼自身もホームオフィスで会社に行く必要もないため、とにかく好条件なわけです。

ただ1つ議論になったのは、ドイツの公的教育について。ドイツの幼稚園は、基本的に子供は勝手に遊んで、遊びながら学ぶという放任主義的なところが多く、アルファベットを勉強するとかそういうのは基本的には小学校の仕事になるわけですね。中国人の彼的には英語、数学、アルファベットぐらいは教えるべきという考えで(+しつけ、1時間ぐらいちゃんといい子に座っているとか)今後の子供の教育はどうするか考えものとのことでした。幼稚園教諭の資格も、アジア圏に比べると比較的取得が簡単なようで、それもあってレベルが低いと。ほかの日本人のママさんに話を聞いたときは、逆に幼稚園や小学校低学年でできすぎてしまうと、ちゃんと学ぶべきタイミングで学ばない(大学入試の前など)可能性があるので気を付けてくださいと先生から言われたというエピソードがあり、どちらも的を得ていてなかなか難しい議論だなあと思いました。でもまあ集中力が散漫してしまうのを気にする彼の気持ちもよくわかるなあと思いながら話を聞いていました。

ブランチを楽しんだ後はフランクフルト経由でライプツィヒへ。ライプツィヒといえば、バッハ、シラー、ゲーテ・・文学と音楽の都といったイメージをお持ちの方が多いのではないでしょうか。(私もそうでした。)

あるいは、ベルリンの壁崩壊のきっかけとなった大規模デモを思い浮かべる方もいるかもしれません。それだからかは知りませんが、今でもライプツィヒはデモが多く、規制が緩く設定されがちだそうです。

今回は東京でドイツ語をちらっと教えていた教え子兼友人に何年振りかに再会しました。彼女はフォトグラファーですが、なんと今は日本語とドイツ語の先生も並行してやっているとな・・いつの間にかとてもたくましくドイツで生きていて嬉しい驚きでした。

今回のハイライトは何より日本の家(Das japanische Haus)に出会ったことです。これは大谷さんという方が10年前にEisenbahnstrasseという通りで始めた今でいうところのコミュニティスペースで、週に2回Kueche fuer alle(通称Kuefa, 市民食堂)として食事を無料提供しつつ、コンサートやギャラリー、ワークショップスペースとしての場になっています。この活動が面白いのは、全て投げ銭制である点と、日本人の家という名前ながらそのへんのおじさんとか、若い子とか、移民の人とか、とにかく誰でも気軽に遊びに来れることです。東京の新代田にも似たようなスペースがあり(空間工場)、よく通っていたので、本当に心から懐かしい気持ちがしました。気が向いたら行く、行ったら誰か知り合いがいる。初めて会う人も、往々にして何か面白いことをやってる人。そんな場が、まさかライプツィヒの、一番アングラ感漂う通りにあるとは想像だにしませんでした(笑)が、新たな一面を見ました。大谷さんのコミュニティスペースづくりに関しては本が出てますので気になる方はアマゾンでぽちっとしてみてください。

都市の〈隙間〉からまちをつくろう: ドイツ・ライプツィヒに学ぶ空き家と空き地のつかいかた

私が専門にしているサステナブルファイナンスも、こうしたコミュニティスペース作りや、ソーシャルハウジングには欠かせない分野でもあります。世界的に住居不足(ここでは月給で生活できるレベルの家賃の住居という意味)が課題となっていますが、ドイツの場合その1つの解決策として、住居の50%の権利を住民が購入し、残り50%を非住民が所有することで住居の値段高騰を防ぐような仕組みがあります。このバックに存在するのもGLS BankやUmwelt Bankといったソーシャルバンクです。彼らが一部ファイナンスすることで、小規模プロジェクトははるかに推進しやすくなると。そんな銀行が日本にも必要なのだと話しながら思いを改めた滞在でした。

それにしても、出入りしている人のユニークさ、そして自由さ。往々にしてアート系やワーホリの人が多いのですが、みんな好き勝手にやっている感があり、とても心地よかった。

その後ベルリンに移動し、友達の誕生日会、大学時代の友達との再会など人に会って過ごしました。Sasayaという日本食レストランがマウアーパーク(Mauaerpark)の近くにあるのですが、いやーこれが本当においしかった。メニューもとても幅広く、寿司はもちろんのこと、白子の空揚げ、山菜そば、お茶漬け、白ごまのパンナコッタ等盛りだくさんでした。スタッフの方も殆どが日本人で、椅子の下に荷物が置けるようになっている設計も日本を思い出しました。(笑)久しぶりに日本食を堪能した夜でした。普段は予約でいっぱいで、今回は開店時間前に並んだのでぎりぎり入れました(苦笑)

食後に玄米茶を注文したのですが、思わずその香りに「落ち着く~」と自然と言葉が出てしまいました。友達に、落ち着くって何?と聞かれ、別の友達が、fallen und erreichenだよと説明していて、改めてなんだか変な組み合わせだなと思いつつ、でもmake senseするのかなんなのか日本語は一旦考え始めるといつも謎々みたいになってしまいますね。

今回の滞在で驚いたのは、Friedrichsheinの友人のところに滞在させてもらったのですが、1階エリアの物置部屋が実は昔牛や羊などを飼育していた家畜小屋だったことです。ベルリンも昔は畑だったので、そのような建築が今でも沢山残っており、中には継続して鶏など飼育している家もあるとか。(もちろんオルタナティブなムーブメントの一貫的なもので、全ての家がそういうわけでもないですが。。)また、昔来た時は何とも思わなかったのですが、暖炉もついていて、10年ほど前はそこに炭を入れて暖をとっていたとか。今は使うことはない、というかむしろ環境規制的に使ったら罰金もののようですが、新しい発見でした。

ベルリンに来て思うのは、街中に沢山のKiez(キーツ、たまり場)があるわけです。東京も少し似た部分があるかもしれませんが、例えば上野とか、渋谷の○○とか、下北沢とか。なんとなくそれぞれのエリアにふらっと集まれるクールな場所があって、ベルリン自体は大都市なんですが、それでもその中で行きつけのコミュニティがあって、そこに所属している、そんな空気を作り出しているわけです。もちろんそれを探し出すまでに時間はかかるし、それが無い人にとってはベルリンは大都市でしかないのですが。

そのへんが、今回ハンブルクを出てみてとても印象に残った点です。ハンブルクは住みやすいし、人は親切だし、外国人も沢山いるし、大企業もたくさんあって、いわゆるdecentな、まともな仕事をしている人が多い。確かに渋谷的なエリアはあるけれども、ハンブルクでKiezといったらSt.Pauli一択。たくさんあるわけではない。アルスター湖も、エルベ川も、自然も、本当に贅沢できれいなエリアなのは間違いなくて、ハンブルクを出なければきっとその魅力にずっと魅了され続けるのかもしれません。

でも、確かに、出てみてわかるのは、ハンブルクが経済的に豊かな都市であるということ。港と商業に支えられたこのハンザ都市で、毎日通りかかる美しい建物の背景で、どれだけの消費活動が行われているのか、実は想像してみると、非常に資本主義的な街なのかもしれません。Berlin=arm und sexy(ベルリンは貧しいけれどもセクシーだ)という表現がありますが、それがハンブルクには欠けているわけです。貧しくもセクシーでもないから当たり前なんですが・・。到着した時には、そして住んでいる時には、全く感じることのなかった違和感。でも自分の所属したい場所を考えたときに、なんとなくハンブルクのその雰囲気に飲まれていた自分がいたのではないのかと自問自答してしまいました。

とまあつらつらと五月雨式に帰りの電車の中で書き連ねてしまいまいたが、一旦帰ってからの目標は、ハンブルクのオルタナティブ/再開発エリアを積極的に尋ねてみることですね。Kuefa, 政治, 移民コミュニティにも顔を出して、どんな人がいるのか見てみること。なんとなく、行き難い、入りづらいような雰囲気を自分で勝手に作り出していたのではないかと反省。きっとまた、自分自身の目で、関わってみたら印象も変わるでしょう。

私自身、自分がふらりと立ち寄れるコミュニティが欲しいし、自分で作るのも1つ手としてはあり。バルクショップや日本人会のコミュニティスペースを借りて、何かイベントをやってみたい。正式に残された時間はあと1年。まだまだやれることがあるのではないかと、そう感じさせてもらった旅でした。

誰の得にもならないチラシの裏でした。

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