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てきとうざっき:ひとりで考える

明けましておめでとうございます。
くつろぎしのぎです!

年末のつぶやきにも多くのスキを頂き、ありがとうございます。
本日は雑記として、年末の一人旅を軸に考えたことあれこれを記事にさせて頂ければと思います。あてのない文章になるかと思いますが、気軽に読んで頂ければ幸いです(^v^)

他にも宿の外観と朝一目の前に広がっていた光景を写真でどうぞ!
とても素敵じゃないですか!?
※手持ちのスマホでの撮影になりますので、解像度などはご容赦ください(>_<)

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そもそも何旅行?

はじめましての方も多くいるかと思いますので、以下に私のことを綴った記事を置かせて頂きますが、まぁ何のことはありません
一人、おじさん、仕事真っ盛り、疲れた ≒ 必要なのはのんびり旅行だろ!と思って頑張って行ってみただけでございます。

’頑張って’と書きましたが、気付けば一人で旅行って初めてだったのです。
旅行好きな方をとても羨ましいと思うほど、どうも旅先へ行ってもすぐ帰りたくなってしまうんですよね・・もちろん周りの空気とかは壊さないんですが、どうにも、こう、結局しっくりこないと言うか。

なので、「一人でゆっくり旅行したんだぞ!」って事実を得るために行った節もあります。その事実を得た私がその後どんな感情を得るのか、というのはとても気になっていましたので。

旅行の感想を短信で!「寂しかったよ」!

とても良い宿でした!とても良い景色でした!
食事も美味しく、気に行き届いた接客にも感謝でした。
普通に、また何かがどうしようも無くなった時には、
ふらっと行ってみたいなと思うことができましたね。

が、それよりも、現地で、度々こう思ってしまったのです。。。

誰かと来たかった!!!泣

様々な素敵さをどうのこうの言いたかった!
食事の美味しさ、拘った器のセンスを言葉にしたかった!
そうです、寂しかったのです!

景色に圧倒され、その感動でどこにも辿り着かない「スゲェ」というただの感嘆を零す私!
貸切風呂で時間を持て余し、その後の掃除を考えて「私が扱ったのはここです」とわざとドライヤーを無造作に置き直す私!
話す間もなく食べていたら「コース、早く出せるようにしますね」とお気遣い頂いてしまった私!

それらひとつひとつに滲み出る寂しさと謎の無敵感。

というわけで、独りは好きだけど一人はあまり好きじゃないとか、
他社が存在する世界をデフォルトとして持つ人の意味を持った一人とか、
なんかこう、私はかなりわがままだなおい、と思った旅行でした。泣

ひとり で考えたこと

こっからは更にこう、ひとりの世界に入っていくのですが、
つぶやきに記載した通り、金城一紀さんの「対話篇」を持って行き、読みました。

10年くらい前ですかね、私は大学生だったのですが、金城一紀さんのゾンビーズシリーズが大好きで、他の金城さん作品を読み漁っていた中の1つでした。

タイトルに「対話」とあるくらいですから、人と人との対話から広がり意味を持ち始める想いや、思わぬ可能性や、生まれた奇跡を描いており、まぁもうこれ以上は私なんぞが語ることもできないくらい素敵なんですが、10年前の感動そのままに読み返したんですね。

驚くことに、それなりにストーリーは覚えているはずなのに、おそらく前には引っかかっていなかった言葉や、場面の想像の変化などが多くあり、前よりこう、心に来ちゃったんですね。

そして、考えまた同じく、自分の中では深く深く入り込めていったのです。

自己と他者 その'有り得なさ'

自己と他者、それらを扱った小説はもちろん数多いですし、ヒューマンドラマや恋愛もそれ類と捉えてしまえばほとんどがそれを言えると思います。

小説だけでなく、この世界もそうですよね。

家族、友人、彼・彼女、妻・夫、知り合い、ビジネスパートナー、電車と同乗した誰か、同じ町に住むあの人、全く逆の考えを持つ作曲者と視聴者・・関係を洗い出そうとしたら本当にキリが無いと思います。

私がこうしてnoteに記事を上げていることもまた、私と私以外の繋がりの一種です。

そういった関係が多くなったのは、インターネットのおかげだ、という人もいらっしゃいますよね。それはそうですよね、40年50年前では考えられなかったことが、こうして記事を書いて誰かが読んでくれるという可能性そのものでもあるわけですから。

今を生きてる私にとっては、直接お会いしている人も、ツールで関係している人も、逆に全く関係のない人も、何かでどこかで繋がっている、繋がる可能性があるわけです。

その可能性に、こう、圧倒されてしまう瞬間があります。
その一つ一つの可能性が生むかもしれない奇跡に、泣きたくなってしまいます。
哀しいわけじゃないんです、じゃぁ、嬉しいことかって、そういうわけでもないんです。


単純に、たぶん、すんげえって思ってるのです。

色んなサイトで記事を見ていると、目を覆いたくなるような悲しい出来事がありますよね。それは確かにとても悲しいことです。仕方がない、正しいなんて思いませんし、一概にカテゴライズできるものではありません(そもそも「その時」「その人」が「どう思ったか」なんて一つもカテゴライズできるわけがない)。

なので、変なこと言っているように聞こえるかもしれませんが、嬉しいも悲しいも、辛いも楽しいも、マイナスもプラスも、どちらが良いとか悪いとかは一旦置いておいて、「出来事」として捉えて、並べて、言葉にしていったら、どれだけのストーリーに溢れ返っているんだろうって思うのです。

一旦フラットにする必要があるのか、と思われると思うのですが、あると思っています。これは私の意見です(別に尖りたいわけじゃないですが、念のため笑)。

素敵なことって、素敵に表現されがちです。
哀しいことって、哀しく表現されがちです。
それはそうですよね、私が目に触れるってことは、他者に向けて発信されているモノなのだから。
なので、出来事として整列しないと、素敵なことをちょっと悲しく表現したり、哀しいことをちょっと素敵に表現したりできる無限の可能性が出てきます。(それはそれでとても素敵なことで、人間らしいと思いますし、だからこそ生まれた名作たちが私を救って感動させてくれています。だから否定ではないのです。)
そういった’誰か’が’表現する’ことによって発生する揺らぎが無くし、淡々と調書のように世界の人と人、自己と他者で起きていること事実をしていったら、どうなるだろうと想像するのです。

きっと、有り得ない数の出来事で溢れ返ります。
素敵に語られることはなかったけども、素敵なことがたくさんあります。
哀しいから語られることがなかったけども、哀しいことがたくさんあります。
断定で書いてしまって横柄にすみませんが、私は、あると思うんです。

それらは、もう、ホントに有り得ない数、有り得ないことに溢れ返っていると思うのです。私の想像力でなんかキャンパスに一滴も彩り表現することができないくらい、本当は大きな大きな有り得なさなんだと思えるのです。

この可能性に、私は、圧倒されて、言葉が足らなくなるのです。

上記は、「対話篇」のなかで「この気持ちを表現するには言葉が足りない」という主旨の素敵な文節を読んで想い考えたことでした。

もしかしたら気付かず読んで頂いた方を何か思わせてしまったかもしれませんが、否定も賛同もなく、私が考えたことに過ぎませんので、ご容赦ください(>_<)

さて、2022年!

ということで、私のnoteは夢を追うことでありますので、様々仕掛けようとしておる所でございます。本年は1歩でも進められるよう頑張ります!
去年末には企画に参加させて頂いたり、このようにつぶやいて自分のことを記事にしたりと、noteの扱いも自由さが広がってまいりましたが、フォロー頂いている方々に少しでも何か伝わればと思い書いておりますので、引き続きよろしくお願いしたく存じます。

ではまた!!

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