受難週メッセージ1 すべてを見て回るイエス
2024年2月25日 礼拝
マルコによる福音書11:11
こうして、イエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そして、すべてを見て回った後、時間ももうおそかったので、十二弟子といっしょにベタニヤに出て行かれた。
タイトル画像:Rudy and Peter SkitterianによるPixabayからの画像
はじめに
今年のイースターは3月31日に行われます。イースターに併せて今回から受難週にあった出来事を通してメッセージをします。今回は受難週の初めの日曜日と月曜日に起こった出来事を取り上げていきます。そこでの私たちの視点とイエス・キリストとの視点の違いについて見ていきたいと思います。
預言された入城(11:1-11)
イエスが受難週の最初の日曜日、すなわち復活祭の前の週にエルサレムに近づいた際、彼はオリーブ山ふもとのベテパゲとベタニヤに近づいていたとき、二人の弟子に命じます。
イエスは、自らをメシアとして捉え、預言の成就を示すために意図的に行動しました。イエスは自らの受難と死の運命を受け入れつつも、それが神のご計画に沿ったものであることを示し、預言に従って行動することで神の御業を成就させていきます。
通常、エルサレム巡礼の旅の最後は、自分の足でたどるのが慣例だそうですが、イエスはここで『ろばの子』に乗られるとあります。
なぜ、イエス・キリストがロバの子に乗ったのかといいますと、それは、ゼカリヤ書9:9の成就を意図したものでした。
ところで、仮に旧約聖書のメシア預言を意図していたとすると、イエス・キリストのエルサレム入城は、イエスがメシアに模倣する行為だとして糾弾されかねないものです。
あらかじめ定められたこと
しかし、イエス・キリストが真のメシアであることが明らかにされたのは、弟子たちのたしかな証言にあります。
イエス・キリストは二人の弟子に使いに出して、命じます。
『まだだれも乗ったことのない』(2節)とイエスは言いますが、それは聖なる用途に用いられることを示します。旧約聖書では、聖なる用途に用いられるいけにえや供物は、使われたことのないものを捧げますが、主イエスのエルサレム入城のときもそうでした。
2‐3節で、主イエスは、二人に命じますが、
弟子たちが出かけてみると、結果は主が命ぜられたとおりでした。
こうしてみますと、主のエルサレム入城は、すべての段取りが神のご計画の中にありました。イエスが旧約のメシア預言を模倣して行った自作自演の出来事ではないことがわかります。
上着や棕櫚にまつわる予表
こうして、イエス・キリストは子ろばの背に乗ってエルサレムに入場していきます。弟子たちは、自分の上着を鞍代りにろばの子の上にかけ、道行くイエス・キリストを待ち受ける群衆は、かつてエフーを王として迎えた時のように上着を道に敷きます。
さらに、イエス・キリストのエルサレム入城から遡ること150年前、紀元前141年、マカベア家のシモンはゲゼル、エルサレムの要塞(アクラ)を攻略し、シリアの拠点は一掃されます。シモンが元老院へ使者を派遣したため、この独立政府は共和政ローマ、スパルタにおいて承認され、セレウコス朝シリアからの独立が国際的にも認められる形になりました。
このとき、マカベア家のシモンがイスラエルの敵を打ち破り、エルサレムへ行進した時、人々はしゅろの枝を振り、歓呼して彼を迎えました。
ホサナと叫ぶ群衆の意図
8‐10節を見ると、過去シリアに占領されていたイスラエルの独立時の興奮を彷彿とさせるものでした。おそらく、群衆たちは現在ローマ帝国の属国となり、異邦人ヘロデが王となっている現状を回復してくださるに違いないと確信して迎えたのでしょう。
人々は9節で『ホサナ』(「今、救ってください」の意)と叫びます。続く『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』このことばは、神殿の祭司が巡礼者を迎える言葉ということですが、
10節に『われらの父ダビデの国に』とあるように、この歓迎の言葉は王を迎えるための言葉でした。つまり、それは神の国イスラエルが、敵国に占領されている状況から解放する王を期待し、歓迎する叫びでした。
霊的な実態をつぶさに見て回るイエス
ところがイエスは、政治的なこととは一切無関係だと言わんばかりに、人々の歓待に応えることもなく、無言のうちに進み、都に入るとそのまま、宮へ直行されました。
そして『すべてを見て回った』と11節にはあります。
そこで、イエス・キリストは何を見て回ったのかと言いますと、エルサレム神殿というエルサレムの中心である宮を調べ、当時の世界三大建築として知られた神殿の壮麗さや、見事な調度品、大勢の参詣者で賑わう様子や装飾品の数々に目を奪われたのではなく、宮を支配している人々の霊的な状況を内側から見たのです。
エルサレムの霊的実態(11:12‐19)
村を出る時に見かけたいちじくの木は、前日にイエスが得た感触を見事に象徴しているものでした。いちじくに関して旧約聖書では、下記のように示しています。
エレミヤ書やミカ書を見ますと、旧約聖書に書かれた『いちじく』とはイスラエルを象徴する言葉です。
ここで、マルコの福音書に戻りますと、主は12節で『空腹を覚えられた』とあります。そこで、遠くを眺めると、一本のいちじくの木が目に止まりました。
そこで、イエスは、13節で『何かありはしないか』と見に行かれましたが、実は一つもついていなかったのです。当然のことながら、季節的には春の矢先であって、実をつけるのは「夏果」は6~7月、「秋果」は8~11月が収穫適期ですから、過越のまつりの前ですから、春先です。季節的に実がなっていないのは当然ですが、主イエスも当然のことながら、こうしたことは承知の上でなさったのです。
不可解な行動をとった理由
なぜ、イエスが不可解な行動を取ったのかといえば、それは、エルサレムの霊的な現実とこれから起こる神のさばきを予表した行動であったのです。
青々と茂るいちじくの木は、エルサレム神殿を遠く離れて見れば活気があり、壮麗な佇まいの姿そのものです。いちじくは神の国イスラエルを象徴する木であり、青々と茂る葉を見ると期待を抱かせます。同様に、聖都エルサレムの繁栄もまさにそのとおりでした。
ところが、遠方から見てみると繁栄と素晴らしさに目を奪われますが、11章1節に『エルサレムの近くに来て』みるとどうでしょうか。
実がないのです。食べようとしても食べられるものがなかった。エルサレム神殿を取り巻く霊的な状態は、神が収穫しようとしても収穫できるものが一切なかった状態でした。
神を見ることなく、表面的なことに終始し、経済的繁栄と自分たちの生活の平穏無事しか望んでいない空虚な霊的状態をイエスは、『葉のほかは何もないのに気づかれた。』とマルコは記しました。
こうして、イエスは14節で『いちじくの木をのろわれ』、20節を見ると翌日いちじくは枯れてしまいますが、それはエルサレム攻囲戦 (AD70年)でエルサレム神殿が崩壊しますが、その時に臨む姿を40年前にいちじくが実際に枯れることでイスラエルの将来を預言されたのです。
神殿で行われていたこと
エルサレム神殿におけるこのような実践は、イエス・キリストが糾弾した行為の一例です。異邦人の庭での両替や動物の販売には、神の神聖な場所であるはずの神殿で商取引が行われていることに加えて、価格が不当に高く設定され、信者たちを搾取しているという非難があります。
イエスはこのような状況に対して怒りを表し、神殿での商業活動を正当なものとは見なしませんでした。彼は神殿を「強盗の巣」と呼び、商人たちを「強盗」として非難しました。イエスは神の家を祈りの家として尊重されるべきであると考え、この商業活動がその目的に反するものとして批判しました。
当時のユダヤ人は宮の外側の庭(異邦人の礼拝の場)を神の宮の一部と考えずに、単なる道として行き来していたようです。
イエスは、『すべての民の祈りの家』であるはずの神殿が、商売や通行によって異邦人の礼拝を妨げていると、神殿の指導者たちを見て非難されました。
『強盗の巣』と17にありますが、この単語は、エレミヤ書7:11に書かれた記事がもとにあります。
その記事の中で、預言者エレミヤは、バアルを拝み、忌むべきことを行う祭司たちに対して、神を冒涜することを行いながらも、他方で宗教的儀式のゆえに神への神殿に立ち、「私たちは救われている」と扇動する祭司の矛盾を非難し、エルサレム神殿の破壊を宣告しましたが、それと同じように、イエス・キリストが活躍した時代のエルサレムもバビロン捕囚前の霊的状態と何ら変わることがないと言うのです。
イエス・キリストは、ものすごい剣幕で商売人を追い払います。ここでのイエス・キリストの行動は誰も抑えることが出来ませんでした。神殿を『わたしの家』と17節で呼ぶイエスは、神の圧倒的な権威を帯びていました。
27節以降で、指導者たちはこの権威の出所を追及しましたが、それよりも、群衆がイエスを支持すれば、自分たちの罪が追求されることを恐れ、イエスの抹殺を考えます。
イエス・キリストは、さまざまな機会において、権力や富を濫用し、他人を苦しめる者たちに対して厳しく警告しました。特に、神の恵みや人々の信仰を搾取し、自己の利益のために利用する者に対しては、その行為を「強盗」として非難しました。イエスは、神の恵みは単なる個人の利益のためではなく、神の栄光に返すべきであると教えました。このような行動は、神の道に背いて他者を苦しめるものであり、イエスの教えと真に相いるものではありませんでした。
おわりに
主イエス・キリストは、我々と異なり、表面的なものだけを見ているお方ではありません。その表面にある私たちの心の奥を見ておられるお方です。イエス・キリストに嘘は通用しません。私たちは自分をよく見せたりするために体裁を整え、自分の恥部や嘘偽りを隠そうとしますが、空虚な私たちの空っぽの姿を見ておられるということです。
そのため、私たちはイエスの前では偽りや体裁を整えることなく、素直に自分をさらけ出すことが重要です。彼は私たちが完全でなくても、欠点や弱点を持っていても受け入れ、癒し、変えてくださるお方です。私たちはイエスの目の前で謙虚であり、真実を語り、悔い改める心を持つことが大切です。そして、そのようにして私たちの心を開き、イエスとの関係を深めていくことが、真の成長と癒しの道であります。
私たちの信仰が表面的で見せかけだけのものであってはなりません。イエス・キリストは私たちの心の奥深くを見抜き、真実の信仰と真摯な心を求めておられます。綺麗事や偽善だけの信仰は、主の前には通用しないことを強調されています。
ここでは、イエスがパリサイ人や律法学者たちに対して、表面的な信仰や外面だけの宗教的実践を批判されました。イエスは真の信仰とは、180度心を神に向けるものであり、偽善や空虚な行いではないことです。イエスは私たちの心を満たし、変え、真の信仰と希望をもたらすために私たちの内面にお住まいになりたいと望んでおられます。
ですから、私たちはイエスに真実な心をさらけ出し、その恵みと愛によって変えられることを受け入れる必要があります。間違えてならないのは、信仰は綺麗事や表面的な外見ではなく、心の内側での深い関係と変化を通じて育まれるものであるということを覚えておくべきです。アーメン。