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『復活を待望するアドベント』 2023年アドベント第3週 

2023年12月17日 礼拝

Ⅰヨハネ 2:16 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。

タイトル画像:Myriams-FotosによるPixabayからの画像

はじめに


前回は旧約聖書の契約、とりわけダビデに対して与えられたダビデ契約にもとづくメシア預言を取り上げました。原始福音に始まり、旧約での契約の中身を見てきますと、その中心はメシアであるキリストの来臨がテーマでした。契約ごとに神の人間に対する救いは明らかにされていきますが、そうした中で繰り返されたのは、人間の必要を満たすためのメシアを待望しようとする態度でした。アドベントのなかで何が大事なのでしょうか。旧約全体の歴史から見ていきます。

人の理想をくつがえす選び


旧約聖書の歴史を見ていきますと、神の救いの計画というものは、ことごとく人が考える理想とは異なるものでした。

長子が跡を継ぐ

イスラエル人は、初子は父の力の最初の実であり、父に次いで尊ばれ、他の子らの二倍の嗣業を受けます。こうして長子は家長の権威と責任を受け継いでいきます。特に王の場合、王位継承権はまず長子にありました(Ⅱ歴21:1‐3)。ヘブル人の間では人間や動物の初子は神のものとして聖別され、重要視されていました。

 ところが、こうした前提を覆す出来事がありました。代表的な例として、アブラハムが挙げられます。カナンの地に移住したアブラハムは85歳の老齢になるまで子宝に恵まれませんでした。すでに75歳だったサラは自分には子は授からないと思って、妻サラが所有していた若い女奴隷ハガルを連れてきて、夫に床入りを勧め、高齢のアブラハムが奇跡的に身ごもりました。こうして、アブラハムの長男はイシュマエルになります。当時の常識からすれば、長子が世継ぎになるのが当然ですが、子供が授かるとの主の啓示があったアブラハムに、今度は90歳になっていたサラが奇跡的に身ごもって出産します。こうして、人間の思いつきや計画を超えて、長男イシュマエルではなく次男イサクが選ばれていきます。同様に、アブラハムの子イサクとその妻リベカの間に生まれた双子のヤコブとエサウがいますが、長子の権利である嗣業の特権を弟ヤコブが奪い取り、イスラエルの正統な世継ぎとして、双子の弟ヤコブが受け継いでいきます。

こうして、エサウではなくヤコブが、という中に救いと選びの不思議な神のご計画が進行していきます。

王位は長子が跡を継ぐ

士師の時代が終焉し、ユダヤ人たちは他国に倣って王を擁立したいとの願いが生じました。こうして、初代の王として、サウルが立てられていきます。しかし、サウルは神に背き、王位が退けられていきます。

Ⅰサム 16:7 主はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

サウル王がペリシテ軍との戦いの中で、ギルボア山で息子ヨナタンたちと共に追い詰められ剣の上に身を投げて自害に果てます。
サウルの死後王位を継ぐものは一体誰なのかということになり、サウル王の四男のイシュ・ボシェテが、将軍アブネルに支持されて、マハナイムでサウル王朝第2代目の王になりますが、イシュ・ボシェテが暗殺されるとサウル王朝は滅亡し、ダビデが王とされてダビデ王朝が始まります。

さらに、ダビデのソロモンの時代、イスラエル王国は理想の王のが現れたと確信します。まさに前回紹介したダビデ契約が成就したかのように王国は著しく繁栄し、イスラエルの希望はダビデ王家の子孫に注がれていきますが、ソロモンの堕落に始まり、ソロモンの死後イスラエル王国は2つに分割され、現実の王家がたどる歴史は非常に罪深く、神に対する不信と不信仰は、その後の分裂と低落の一途をたどっていきます。

神が示すメシアが明らかにされる

しかし、暗く、混沌を極める時代へと進行するとともに、救い主への約束はイザヤを始めとする預言者たちを通して、次第に明らかにされていきます。

彼らによって、確実に顕されたこととして、挙げられることを以下に示しますが、

1. 王である救い主ということ(詩篇2:6等)

詩篇2:6 「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」

新改訳改訂第3版

2. 父なる神の子であること(同2:7等)

詩篇2:7 「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。

新改訳改訂第3版

3. 卓越した人物であること イザヤ9:6以下

イザヤ9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

新改訳改訂第3版

4. 苦難のしもべであること イザヤ52:13から53:12

イザヤ52:14 多くの者があなたを見て驚いたように、──その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた──

新改訳改訂第3版

というように、メシアの姿がヘブル人の間に明らかにされていきますが、彼らが期待したようなメシアではないことが告げられていきました。

苦しみはメシアを待望する


北イスラエル王国と南ユダ王国の滅亡

ソロモン以降、度重なる政治的腐敗、支配層の堕落といったものが庶民の生活を圧迫し、さらには、アッシリア帝国やバビロン帝国といった強国の脅威にさらされ混迷と不安が渦巻き、庶民の間には、神への不信仰と異邦人の神への信仰が高まり、ついにはBC722年に北イスラエル王国はアッシリヤに滅ぼされていきます。同様に、その後を追うように南ユダ王国もBC586年バビロンに滅ぼされていきます。

中間時代のイスラエル

その後、BC538年バビロン捕囚が終わりを告げ、旧約聖書の最後の書マラキ書と新約聖書の福音書の間の400年間を中間時代と呼びますが、その後の中間時代と呼ばれる時代は、アレキサンダー大王の支配に始まり、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリアによる支配され続けます。

そうした中で、BC165年12月25日、ついにユダ王国が独立を果たします。この日を記念して、ユダヤ人はこの日をハヌカ―と呼んで、独立をセレウコス朝からの独立を祝っていますが、しかし、それもつかの間でした。
その後もイスラエルは混迷を深め、BC63年に共和制ローマがセレウコス朝を倒すと、エドム人のヘロデが、ローマのマルクス・アントニウスの力を借りて、ハスモン朝を倒します。こうしてBC40年、イスラエルはヘロデ朝として、ヘロデ大王の支配下入ります。

信仰面においても、この時代、イスラエルが神殿礼拝から会堂(シナゴーグ)礼拝へと移行したように、ダビデ王朝が続くという期待もありましたが、南ユダ王国が滅亡するとともに、そうした期待が絶たれると、メシヤを理想化するとともに、質的に充実するの方向へと進んだとあります。

紀元前2世紀のマカベア時代には、王家再興の機運が高まり、さらには起源前1世紀のローマによる統治は、酷税による圧迫やユダヤ人の権利が損なわれた状態から、多くの人々に政治的解放の救い主を期待するようになりました。

こうした長期間の政治的、社会的な不安はユダヤ人たちに示されてきたメシアへの待望は、政治的なメシアへの待望を呼ぶものでした。すなわち、この世の苦しみからの解放と虐げられている人間の権利の回復がメシア待望の拠り所となっていました。

イスラエルの各時代をざっと見てみましたが、その各々の時代によって、救い主に求める課題というものが時代背景によって差があります。しかし、その共通するものは、人間が状況に応じてメシア像というものを作り上げ、時代の課題からの解放者がメシア像であったことです。その根底に流れるものは、人間の欲求や渇望に応えるものがメシアであったということです。

待望する着地点はどこか


 ユダヤ人の圧倒的多数は、この世の苦境から救い出してくれる救い主を元止め、それ自体は神の御心にかなう待望をしていなかったのは事実でした。神の約束をこの世での救いであると解釈し、人間がこの世での理想とするものに終始していたのが、歴史の最初である原始福音から、主イエス・キリストの出現に至るまでの失敗を教えてくれます。

しかし、ユダヤ人が救い主を待望する動機の失敗は、主イエスの来臨後終わったでしょうか。
いいえ、現実には今も続いています。
ユダヤ人が求めた救い主のあり方である、この世での成功や祝福や現世利益は、キリスト教の一部にも見られる傾向のなかに続いていることです。
そうした思想の中には、お金持ちになることや、社会的地位が向上すること、優れた人となることが強調され、様々な物質的な繁栄を説いています。

努力や自己改善に焦点を合わせることは決して間違いとは言い切れませんが、主の教えに従って歩む者の多くは物質的に栄える、苦しみや病気、貧困が取り除かれると教えます。現代のメシアは、そうした欲求に応えるお方、いや、金でどうにかなるのであれば、物質であっても良いのかもしれません。

こうした思想は、神の物質化とも言いかえることができるかもしれません。神は、明確にこうした人間の必要を補うためだけにメシアを送ったのではありません。聖書の示す真の救い主は、主なる神の前で人として守り行うべき道を教え、善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるものを示すお方であり、倫理的であり、天上的霊的なるお方であることです。

こうして、物質主義につながる誤った理解のもとにあったユダヤ人の選民思想を打ち砕く、全世界の救い主としてイエス・キリストが遣わされていたことです。そしてこのことが、賢い者や知恵ある者には隠されて、単純に救い主のお生まれを喜ぶ幼子たちに現されたというところに神の知恵があります。

ルカによる福音書10:21 ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。

さて、本当のアドベントとは何でしょうか。それは、イエス・キリストを信じることで、死より贖われたクリスチャンは、キリストの再臨の時に復活のからだによみがえることを待ち望むことを求められています。
現代の物質文明の中に生きているなかで、私たちの課題として、決定的に不足しているというものは、この『復活のからだ』を待ち望む姿勢にあると言えます。物質や生活が満たされていれば、復活のからだは必要ないと考えるクリスチャンは多いのではないでしょうか。

Ⅰコリ 15:23 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。

黙 20:4 また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。

 いかがでしょうか、皆様はこの世での暮らしや生活の安定を求めて生きていないでしょうか。そうしたものは儚いものです。ふとした出来事で消し飛んでしまう移ろいやすいものです。私たちが求めているものの殆どは、こうした夢か幻にすぎないものばかりです。人生を終えて、何を私たちは天に持って帰ることができるでしょうか。何もありません。唯一天に持って帰ることができるとすれば、それは、主イエス・キリストにある信仰と希望と愛のみです。

私たちがこのアドベントに望むもの。それは、救い主イエスが示した永遠と復活のからだに他ならないことを覚えていきましょう。アーメン。

Ⅰヨハ 2:16 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。