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聖書の山シリーズ1 新たな関係の構築 アララテ山

創世記 8章4節
箱舟は、第七の月の十七日に、アララテの山の上にとどまった。


2022年7月24日 礼拝




はじめに

ペテロの手紙の講解をしてきましたが、しばらくお休みします。
今回からは、聖書にまつわる山を取り上げます。聖書には様々な山が登場しますが、そのいずれもが重要な舞台となっています。その第一回目として、ノアの箱舟が漂着したアララト山にかかわるメッセージを紹介いたします。


アララテ山

著者 DSG

アララテ山はアララト山とも呼ばれ、トルコ東端、アルメニア、イラン国境に近いアルメニア高原の死火山です。2峰に分かれており、大アララトは5123m、小アララトは3925mです。名はアッシリア帝国に対抗した王国ウラルトゥに由来するとされており、ノアの箱舟が着いたとされてします。アルメニア人にとっては民族を象徴する聖山です。1829年初登頂されました。

古来より、ノアの方舟が漂着した場所とされ、遺物が残っているとか、衛星写真に方舟の痕跡が発見されたなど、ノアの箱舟との関連がニュースの話題として賑わすことのある山として知られます。

([ヘブル語]’arārat) 旧約聖書に4回だけ見られる語で,アララテ山脈と関係する山,地方,古代王国の名として使用される.⒈ノアの箱舟がとどまった山地の名(創8:4).その正確な位置は不明であり,さまざまな説がある.⑴黒海とカスピ海のほぼ中間に,俗にアララテ山と呼ばれるマッシス山がある.それは一年中雪の消えない双峰の死火山で,一方の標高は約5200メートル(大アララテ),他方は3900メートル(小アララテ)ほどある.登頂が容易でないこの山を,トルコ人はアグリ・ダグ(「苦しみの山」という意味)と称し,クルド人はコウ・イ・ヌー(「ノアの山」という意味)と呼ぶ.これは旧約聖書の世界の北限とも見なし得る.⑵ヴァン湖の南西にあるジェベル・ジュディと見る.シリヤ語訳などの説.⑶バビロニヤ伝承ギルガメシュ叙事詩によれば,大洪水に耐えた箱舟はニジル山に漂着したとされる.これは普通,メソポタミヤの南東部にあるザグロス山脈中のピル・オマル・グドルンと同定される.
⒉アッシリヤ王セナケリブの息子2人,アデラメレクとサルエツェルとが,父を暗殺した後に逃亡した地方の名(Ⅱ列19:37,イザ37:38).今日で言うアルメニヤ地方.小アジヤ東部,アナトリヤ高原の延長と見なし得る地帯で,ティグリス川,ユーフラテス川,アラクセス川の水源地でもある.
⒊バビロニヤ帝国の衰退を預言するエレミヤが,強大な敵対国として,ミニ,アシュケナズと併記する古代王国(エレ51:27).アッシリヤの碑文中にはウラルトゥとして知られる.現在はソ連領に含まれる,古都トゥシュパの一角トプラク・カーレや,エレバンに近いカルミール・ブルルで発掘調査が進み,特徴ある品々が見つかっている.
ウラルトゥの地名が最初に認められるのは,前13世紀のシャルマヌエセル1世の碑文中であり,ウルミヤ湖とヴァン湖の中間にあったフルリ人の小国として言及される.それはメソポタミヤ文化の影響下にありながら,アッシリヤの弱体化に伴って勢力を増した.前9―8世紀が最も隆盛であり,この頃,楔形文字を変形した独特なウラルトゥ語を発達させた.その碑文がかなり見つかっている.国家神はハルディ神であった.前830年頃サルドゥル1世は首都をトゥシュパに移し,新しい王朝を興した.しかし,外からの侵入者に悩まされ始め,前714年にはサルゴン2世にも敗退した.前7世紀中葉から末期にかけてルサ2世らが勢力を盛り返した.セナケリブの息子らが逃亡してきたのは,この頃であろう.ペルシヤの記録によれば,前6世紀にはインド・ヨーロッパ系のアルメニヤ人が主流となっていたが,しだいに自治機能を失い,ペルシヤの属州となっていった.この地方は銅や鉄の産地としても知られている.

(出典:石黒則年『新聖書辞典 新装版』いのちのことば社, 2014)

暴虐の果て

ノアの箱舟の話を聞いた方はご存知かと思いますが、アダムとエバがエデンの園から追放されて後、人類は増え拡がっていきました。ところが、人類が発展するに従って、地上に悪も増大してきました。神は、地が暴虐に満ち、すべての肉なるものがその道を乱しているのを見て御自分が創造した人を地の面から消し去ることを決め大洪水を計画されました。
主は、こうした人々の悪に堕落していく姿を見て、これを洪水で滅ぼさなければならないと思われたのでした。

創6:5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

神のようになりたいという願い

なぜ人間をお造りになった創造主が、人類を滅ぼさなければならないのかと多くの人は疑問をもちます。
私自身もなぜなのかと思うこともありましたが、その原因というものは、創世記6:1-2にあります。

創6:1 さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、
6:2 神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。

ところで、ここに出てくる『神の子ら』についてですが、この解釈は諸説ありますが、その中でも有力な説として、堕落した天使が人間と結婚し子を授かったということです。ここでは、『神の子ら』を堕天使たちとして解釈していきます。

この記事を見ますと、人間が神への憧れ、霊的なものへの強い熱望が見えます。アダムとエバもそうでした。蛇の姿をとったサタンにそそのかされた二人は、神のようになるとのサタンの言葉に焚きつけられ、食べてはならないとされた園の中央の実を食べてしまうのです。

こうした事例を見るまでもなく、人間の本性のなかに『神のようになりたい』という隠れた欲望があることがわかります。
アダムとエバ以降の人間はこうした本性を受け継いでいきました。
その結果、天使との人間が姦淫を犯すということになったのでしょう。

そうした人間の本性の中心にあったのは、神のようになりたいという自己中心性でした。あらゆるものを手に入れたい、人よりも上を目指したい、尊敬されたいというような段階を超えて、人間を超越したい、支配したいという欲求にまで私たちは考える可能性がある存在になり得るのです。

現代においてもそう考える教祖や、政治家、企業家等々、あらゆる場でそうした人を見ることができますが、大洪水以前の人間もそう考えたのでしょう。手っ取り早く、あらゆる人間を超越するためには、戦って勝利することよりも、権威ある人と婚姻を結ぶことが確実であり、安全と考える人は大勢板でしょう。ですから、人間を超越した存在である天使と婚姻を結ぶことが、安全でかつ人よりも上になる手段として最も優れていると考えたでしょう。もし、仮に現代において、天使と婚姻できれば、それは大きな力を手に入れることができるのではないかと思います。

そのメリットとして、霊的な世界の門戸を天使が開いてくれるわけですから、近未来のこともわかるでしょうし、未来がわかれば人間を自由に操れることですら可能です。天使の知的能力は私たちよりも勝っていますから、こぞって、ノアの時代の女性たちは天使を迎えたのではないでしょうか。

そうした利点を追い求め、天的あるいは、霊的な力を享受する一方で、その代償は非常に大きなものでありました。創世記の6章3節で聖書はこう記しています。

創6:3 そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられた。

それまでの人間の寿命は、長いもので900歳を数えるほど長命でした。アダムが930歳、セツが912歳、エノシュが905歳と、現代では考えられないほどの長生きをしています。
ところが、天使と人間が婚姻したことによって、大きく寿命が減少するという結果になりました。

暴虐が満ちる

さて、こうして、人間と天使との間に子どもが生まれると、天使の子どもたちは、地上での権力闘争に生まれながらに勝利していったことでしょう。人間を従属させ、高い位置にとどまるということがあったのではないでしょうか。ところが『神の子ら』と記されていますから、当然天使の子どもが複数存在していたわけですから、それぞれが派閥を作り、派閥間での闘争というものも激化したのではないでしょうか。

完全な支配においては、複数はありえません。トップ・オブ・ザ・ワールドを目指さなければ、必ず誰かに従属せざるを得ないわけですから、神の子らの子どもたちは互いに戦いあうという事になったことでしょう。

創世記6章11節では、その様子を『地は、暴虐で満ちていた。』と記していますように、その中身については具体的にはわからないのですが、暴虐は、抗争がなければ生じません。その抗争は、人の上に立とうとする人間の飽くなき欲望が人を駆り立て、暴虐に至らせるものです。洪水以前の地上は、血で血を洗うような戦争が日常的に繰り返されていたのと考えられます。


6:11 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。

こうしてみていきますと、神が滅ぼさなくとも、自滅の道を人間は選び取っていたようです。


神とともに歩む

neufal54によるPixabayからの画像

創6:5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。
6:6 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
6:7 そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

神は、5-6節にあるように『地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く』ことを嘆き、悔やんだとあります。
その結果、滅ぼすことをやむなく決定するという記述があります。
いつも『悪いことだけに傾く』とありますが、それは、創造主なる神の存在を忘れ、自分が神のようになろうというする傾向に神は嘆いたのです。
アダムとエバのときはエデンの園からの追放で処分は終わりましたが、ノアの時代は、大洪水によって消し去るというきわめて重い処分となりました。
その背景として、人間の神からの離反と堕天使となった悪霊に従ったという理由がその原因でした。

こうした人間の歴史において暗黒の時代ではありましたが、主は救済の手段んを備えていました。それが、ノアという人物です。

創6:8 しかし、ノアは、主の心にかなっていた。
6:9 これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。

『ノアは、正しい人』として聖書は紹介しています。
滅ぼされた人たちは、『神になろうとした』一方、
ノアはどういう人物であったのかといいますと、『神とともに歩んだ』とあります。彼は、主と共に歩みますが、主のみことばによって生きていたということです。主のみことばによって、いつも自分自身の罪深さを認め、素直に悔い改めつつ、心からの信仰をもって主とみことばに信頼して生きていた人です。つまり、聖霊の導きにゆだねていくということが他の人と違っていました。

方舟の建造と洪水

Jeff JacobsによるPixabayからの画像

創世記に記されている方舟の大きさは、「長さ300キュビト、幅50キュビト、高さ30キュビト」で3つのデッキを持っている[。これは、幕屋の3倍の高さであり、幕屋の前庭の3倍の広さということです。この大きさは、人類の魂の救いという意味が同時にこめられているとされます。現在の大きさに換算しますと全長133.5m、全幅22.2m、全高13.3mという巨大な大きさの船になります。さらに驚くことに、全長:全幅:全高の比率は、30:5:3となり、現在のタンカーなどの大型船舶を造船する際に、最も安定しているといわれる比率とほぼ同じということです。
おそらくノアは、巨大な船舶の造船技術や、知識や材料もない中で、彼と彼の家族だけでこうしたことが可能になるのか不思議でなりませんが、神が働くとこうした人間の人知を超えたことも可能となるのです。

そうした奇跡の背景に、神とともに歩むことに私たちの勝利の秘訣があるのです。

こうして、方舟はゴフェルの木でつくられ、三階建ての内部には、小部屋が多く設けられていました。方舟の内と外は木のタールで塗られ防水性を高めてありました。ノアは方舟を完成させると、妻と、三人の息子とそれぞれの妻、そしてすべての動物のつがいを方舟に乗せたます。それ以外の人は乗ることが許されませんでした。その後、大洪水が地表を覆います。洪水は40日40夜続き、地上に生きていたあらゆるものを滅ぼしつくしました。水は150日の間水かさを増し続け、その後、方舟はアララト山の上に漂着しました。

創7:18 水はみなぎり、地の上に大いに増し、箱舟は水面を漂った。
7:19 水は、いよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々も、すべておおわれた。

アララト山の上での礼拝

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創世記8章を見ますと、ノア601歳の1月1日に水が乾き始め、2月27日に全ての水が乾いたと創世記第8章13-14節にあります。
この後、ノアは箱舟から出て良いとの神の指示を受け、家族と動物たちと共に方舟を出ました。そこに祭壇を築いて、全焼のいけにえを主に捧げました。
主はこうした彼らの礼拝に対して、ノアとその息子たちを祝福し、ノアとその息子たちと後の子孫たち、そして地上の全ての肉なるものに対し、全ての生物を絶滅させてしまうような大洪水は、決して起こさない事を契約しました。主はその契約の証として、空に虹をかけたとあります。

彼らの最初に踏み出した地面がアララテ山でした。その最初の一歩に何を行ったのかといえば、『礼拝』です。

創8:20 ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。

その中で、旧約聖書の中でこのいけにえが初めて登場するのは創8:20でした。箱舟から外に出たノアの礼拝行為の中でこれをささげました。
全焼のいけにえとは、

全焼のいけにえのささげ方は,ささげる当人がまずいけにえの頭に手を置く.それはささげる人といけにえの動物とが一体となり,罪が人から動物へ移行し,これによって身代りが成立することを意味する(レビ1:4).ささげる人がこれを殺し,その後祭司たちによってその血が祭壇の回りに注ぎかけられた.鳩の場合は血を祭壇の側面に絞り出した(レビ1:5,11,15).その後,動物のいけにえは皮をはぎ,各部分に切り分け,内臓と足は水で洗い,祭壇で焼いた.鳩の場合は,餌袋は灰捨て場に捨てられた(レビ1:16).
いけにえの血には贖う力があった(レビ1:4).贖罪の最も重要ないけにえとしては「罪のためのいけにえ」(レビ4:1‐5:13)があるが,この全焼のいけにえの強調点は,いけにえの全部が焼かれることから,ささげる人の神への全面的な献身を表し,またこの規定が犠牲規定を記したレビ記の冒頭にあることから,神と人との正常な関係,理想的関係を表すことにおかれている.これに完全に適合するのがイエスであった.イエスは,少しも傷がなく(ヘブ9:14),罪のためのいけにえとなると共に,完全に神の御旨を行うために御自身をささげられた全焼のいけにえであった(ヘブ10:8‐10).こうしてイエスは,神が人間の罪を赦す道を開き,人々の救いを永遠に全うされたのである(参照ヘブ10:14).

出典:全焼のいけにえ 『新聖書辞典』 いのちのことば社

アララト山と仮庵の祭り

アララト山にとどまった日は、ティシュリーの月の17日でした。これは、ちょうど仮庵の祭りの時期に重なります。
仮庵の祭りは、過越祭(ペサハ)と七週の祭り(シャブオット)とともにユダヤ教三大祭の一つ。仮庵祭、スコット(Sukkot)ともいいいます。Sukkot とはヘブライ語で「仮庵」のことです。ユダヤ人の祖先がエジプト脱出のとき荒野で天幕に住んだことを記念し、祭りの際は木の枝で仮設の家(仮庵)を建てて住む祭りです。

出エジプトの様子については、出エジプト記に記されていますが、実は、ノアの箱舟が出エジプトの予表ともなっていたのです。出エジプトもノアの方舟も罪に満ちた世界からの脱出と新しい世界への門戸を開くという点において共通しています。また、出エジプトでは、シナイ山がその重要な場を提供していますが、次回はシナイ山を取り上げていきます。


さいごに

こうして、アララテ山は、人間と神との新たな関係の構築と、現代につながる文明の開闢の時としての非常に重要な場を提供しました。あまりにひどい人間の活動に対して神は、洪水で滅ぼすという結果に至ったことは残念ですらあります。
しかし、ひるがえて現代に生きる私たちの世界を見たときに、より混迷を深め、従来『道』と思っていたことが、容易に覆されている現実があります。人権を守るということが信仰となり、神によって聖定されたことが覆されてきている現実があります。私たちは世の情報や思想に流されるのではなく、聖書が何を私たちに教えているのか、どう神は求めているのかを聞いていく必要があるのではないでしょうか。
今や、ノアの洪水の前夜に近い崩壊の予兆が全世界に忍び寄っていることを考えていくべきでしょう。

ここで、もう一度思い出してほしいことは、私たちのノアの方舟は、イエス・キリストであることです。
イエス・キリストは、天地が覆ることがあったとしても、私たちを守ってくださるお方です。
試練や苦難の荒波があったとしても、決して私たちは溺れることはありません。必ずや、安全と平安のうちにアララテ山に私たちを導いてくださるお方です。アララテ山は、天の御国の予表でもあります。
ノアたちが捧げたアララテ山で行った礼拝を天の御国で祝うことでしょう。
ハレルヤ!