見出し画像

若い人たちへの懇願───神の御手のもとで          Ⅰペテロ5章6節

タイトル画像:falcoによるPixabayから

2023年5月21日 礼拝

Ⅰペテロの手紙
5:6 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。

Ταπεινώθητε οὖν ὑπὸ τὴν κραταιὰν χεῖρα τοῦ θεοῦ, ἵνα ὑμᾶς ὑψώσῃ ἐν καιρῷ,

はじめに


前回、ペテロ5章5節の『若い人たち』νεώτεροι(ニューテロイ)という言葉をご紹介しました。日本語訳にしますと、教会の若い人たちが長老に服従し、互いに従順であるようにと勧めているように読んでしまいます。この『若い人たち』νεώτεροι(ニューテロイ)という言葉は、必ずしも年齢を意味するものではなく、単に年齢に基づいているわけではなく、役割や地位に基づいている可能性があることが指摘されているということです。長老よりも年上の人であっても、役割や地位によっては『若い人たち』に含まれることがあるわけで、若い人たちという言葉をそのまま鵜呑みにしては問題があるようです。そう読んでいきますと、『若い人たち』という言葉は、教会員全員を指す言葉として捉えることがふさわしいのです。

さて、そのように読み込んでいきますと、今回の6節に書いてある言葉の意味というのも、年齢を問わず、すべてのクリスチャンに言いうる言葉ととらえて差し支えないでしょう。

決定的に、意志的に、直ちに


5:6 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。

出典:新改訳聖書 いのちのことば社 『ペテロ第一の手紙』

今回のペテロの手紙を見ていきますと、ペテロは、読者に『ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。』と教えています。
その部分をギリシャ語を見ていきますと、

ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。
(新改訳)
Ταπεινώθητε οὖν ὑπὸ τὴν κραταιὰν χεῖρα τοῦ θεοῦ,
(タペイノーセーテ オーン ヒュポ テーン クラタイアーン ケイラ トゥー セオー)
「あなた方はへりくだりなさい。神の手の支配のもとに」(私訳)

へりくだることの意味

へりくだるということの意味は、マタイ18:4に具体例が示されています。

マタイによる福音書
18:4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。

出典:新改訳聖書 いのちのことば社 『マタイによる福音書』

この幼い子供のようにへりくだる者は誰でも、天の王国で最も偉大であると聖書は語ります。

ですので、ペテロの『へりくだりなさい』という言葉の裏には、信仰による決断を要求していることがわかります。

「へりくだりなさい」という言葉は、キリスト教の教えにおいて謙虚さを促すものです。この言葉は、自己中心的な態度や優越感を捨て、他の人々と対等に接する姿勢を持つことを奨励しています。

この教えは、自己を高めようとするプライドや自己中心的な欲望を捨て、他の人々と協力し、愛と思いやりをもって接することを重視しています。自分が上であるか下であるかに固執するのではなく、キリストの教えに従って他の人々を尊重し、助けることが大切だとされています。

謙虚さは、自己陶酔や他者を見下すことではなく、むしろ自己を抑え、他者に奉仕する態度を持つことです。私たちはみな神の前で平等であり、自分の地位や功績に基づいて他者を評価することは避けるべきです。その代わりに、他の人々を尊重し、思いやりの心を持って接することが求められます。

したがって、「へりくだりなさい」という言葉は、キリスト教の信仰において自己を卑下することではなく、むしろ他の人々との関係を尊重し、謙虚な態度を持つことを奨励しているものです。

ところで、へりくだりなさい(Ταπεινώθητε:タペイノーセーテ)という言葉は、文法ではアオリスト能動態命令法という用法が用いられています。
アオリストという時制は、日本語には馴染みのない時制でわかりにくいです。

ところで、ギリシャ語での現在時制はその動作が長く続くことを意味しますが、一方でアオリスト時制はその動作が一回だけ短時間でおわり繰り返さないものであることを示します。このため命令法のアオリストは必ずしも、継続して何度も続けるということではなく、繰り返しも期間もない一回だけの単純な動作を示しているに過ぎません。
ですから、決定的に、意志的に、直ちに「へりくだる」という意味になります。

クリスチャンは、こうして神の前にへりくだることが強くもとめられているということをこの単語から理解できます。

イエス・キリストの謙遜


へりくだることについては、自己卑下ではないことを学びました。それは、人に対して自己卑下するということではないことです。

ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。

この聖句は、神の権威と力の下にへりくだることを信者に勧めています。
つまり、神の意志と導きに、喜んで謙虚に身を委ねるということです。そうすることで、神の恩恵と祝福を受けることができるのです。神の力ある御手」という言葉は、神の主権と力を強調しています。

ここで、謙遜とは何かということに関して、わかりやすい例を挙げますと、それは、イエス・キリストの生涯に見ることができます。

イエス・キリストの受難と十字架にまで従った姿勢に真のへりくだりを見ることができます。どのような点をもって、へりくだっていったのかといいますと、

このイエス・キリストは、神であるお方でありながらも、「女から生まれた者」となり、また、律法であられるお方なのにも関わらず、「律法の下にある者」となりました。(ガラ4:4)

ガラテヤ人への手紙
4:4 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。

出典:新改訳聖書 いのちのことば社 『ガラテヤ人への手紙』

さらに、「神の御姿であられる方なのに、仕える者の姿になられ、人間と同じようになられた」ことです。(ピリ2:6‐7)

ピリピ人への手紙
2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、

出典:新改訳聖書 いのちのことば社 『ピリピ人への手紙』

そして十字架の死に至るまで神に従われたことや、罪のない方であったのにも関わらず、私たちの罪のためにのろわれた者となって十字架の死を遂げたことや、そして復活の時まで肉体的に死んで墓に葬られたことなど、主イエスの出生から埋葬に至る地上の生涯のすべてを卑しく、へりくだってくれました。

謙遜と救いの関連性


そのイエスの姿に、神の力強い御手の下にへりくだった姿を見ることができます。

救いは神の恵みによってもたらされます。人間は神の前で罪深い存在であり、救いは自己の力や努力によって得られるものではなく、神の恵みによって与えられるものです。
この観点から見ると、謙遜やへりくだりというものは、人間が自己の力や高慢さを捨て、神の恵みを受け入れる姿勢を持つことです。

救いと謙遜の関連について

  1. 謙遜とキリストの模範: イエス・キリストが救いの中心であり、人間はキリストに信頼し従うことによって救われます。キリストは自己を謙遜にさげる姿勢を持ち、十字架の死を通して救いをもたらしました。そのため、信仰者はキリストの謙遜な姿勢に倣い、謙遜を実践することが求められます。

  2. 謙遜と信仰の要素: 信仰は救いへの道です。謙遜は、自己の力や能力に頼るのではなく、神の約束と恵みに信頼し、従順に歩む姿勢を表します。謙遜な信仰者は、自己の正当化や自己中心的な欲望を捨て、神のみ旨を求めることができます。

  3. 謙遜と奉仕: 救いの結実は、奉仕の中で実現されます。謙遜な姿勢を持つ信仰者は、自己の利益や栄光を追求するのではなく、他人に仕える姿勢を持ちます。このような奉仕の姿勢は、神の国の価値観に基づいて他者との関係を築く上で重要です。

こうした関係性から、救われた者は意識的に『へりくだる』ことが求められるわけです。当然ながら、意志をもって『へりくだる』には、反抗する理由もありません。救われたならば、それは、アオリストの時制を示すまでもなく、決定的に、意志的に、直ちに「へりくだる」ということになるでしょう。

ペテロは、読者にへりくだりの決断を迫っているように思えますが、本当に救われているクリスチャンならば容易に同意し、従えるはずです。

謙卑と高挙


クリスチャンにとって、へりくだることは決して困難ではないことを示しましたが、ペテロは、同時に

神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。

と6節後半で述べています。この節は、神の前にへりくだることで、信者が神によって引き立て、高くしてくださることををやがて経験できることを示しています。この高くしてくださるとは、霊的な祝福を受けること、神の恵みと恩恵を受けること、そして最終的に裁きの日に報われることを示した言葉であります。

ἵνα(ヒナ)

ここで、『ちょうどよい時に』と記されていますが、本文では、ἵνα(ヒナ)という接続詞が使われています。このἵνα(ヒナ)という言葉は、行為をその意図した目的へと拡張する。という意味を持つ言葉が出てきます。

ペテロの時代は、クリスチャンは余儀なくこの世において屈従を強いられたなかに置かれましたが、そうした権利の剥奪された状態はいつまでも続くものではなく、主の再臨の時に贖われるということを示した言葉でもあります。

G. Archerによれば、
「ギリシャ語で目的を表現する(例えば平易な不定詞と比較して)意味的にマークされた(劇的な)方法」

というように、今までの状態からある目的へと激変させるような意味を持つ言葉です。ヒナと聞くとどことなくほんわかしたイメージですが、結構激しい言葉であるようです。

このἵνα(ヒナ)は『へりくだりから高み』という接点に置かれた接続詞ですが、これこそが、イエス・キリストの十字架と復活という相反する目的の接点に置かれた言葉でもあるのです。

ペテロは、ἵνα(ヒナ)という単語を使うにあたって、もちろん、主イエスの十字架と復活を念頭において用いていたことでしょう。
彼は、主イエスの十字架と復活の直接の目撃者でした。この事実を抜きにして、ἵνα(ヒナ)の意味を語ることはできません。

イエス・キリストが、この世においては謙卑の生涯でしたが、今や復活によって死人の中からよみがえり、天上において神の右に座し、 あらゆる権力の上に立ち、またあらゆる名の上におかれ、全人類の統治者となり、すなわち神みずからの力と主権の代行者となっておられます。

このことをキリストの謙卑の反対の概念である『高挙』というキリストの復活の概念として神学で紹介されておりますが、これはイエス・キリストだけでなく、キリストを信じるクリスチャン一人ひとりに付与された恵みであるのです。

私たちは、このイエス・キリストを信じて救われてから、イエス・キリストの十字架と復活を帯びたものへと変えられています。
同時に、イエス・キリストの『謙卑』と『高挙』をも帯びた者へと作り変えられていることです。
ですから、私たちは意識して『へりくだる』ことができますし、どんな困難にも打ち勝つ希望を帯びているのです。

作者のペテロは、困難や迫害に直面していた初期のクリスチャンを励まし、強化するためにこの節を書いたものですが、神の主権に対する謙遜と信頼の呼びかけは、困難な時代には特に重要であり、神の保護と恵みに頼ることを信者に思い起こさせたことは間違いありません。

昇天日を迎えて


今日は、イエス・キリストの昇天日を迎えました。昇天日は、クリスチャンの信仰において非常に重要な出来事です。イエス・キリストは復活後40日間の間、弟子たちに現れて教えを授け、神の国の到来を宣言しました。そして昇天の日、イエスは天に上って父なる神の右に座しました。

この出来事によって、イエスは人々に神としてのあり方を示し、その地上での使命を果たしたことを象徴しています。また、イエスの昇天によって、彼の弟子たちは聖霊の降臨を受けるという約束が実現し、新しい時代の幕開けが訪れました。

イエス・キリストの昇天は、信仰者にとって希望と勇気を与える出来事です。それまでの謙卑の姿勢から、イエスは高挙し、神としての栄光に戻りましたが、彼の昇天によって私たちも解放される道が示されました。昇天は、地上での苦難や悲しみから解放され、永遠の命と神の国への帰還を約束する象徴的な出来事です。

今日の御言葉は、私たちに希望を与え、悲しみや苦難に立ち向かう力を与えてくれます。イエスの昇天は、私たちが奴隷のような状態から解放され、神の子としての栄光と自由を受け継ぐ日が近いことを示しています。

昇天日は、イエス・キリストが私たちのために果たした救いの業績を称えると同時に、将来の希望と神の国への期待を抱く日でもあります。私たちは謙卑な姿勢からの解放を祝いつつ、イエス・キリストの教えに従い、神の国の価値観を実践することが求められています。ハレルヤ。