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受難週メッセージ2 スパイ・ウェンズデー

2024年3月3日 礼拝

マタイによる福音書
26:6 さて、イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、
26:7 ひとりの女がたいへん高価な香油の入った石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。
26:9 この香油なら、高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」
26:10 するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。
26:11 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
26:12 この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。
26:13 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」
26:14 そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、
26:15 こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。
26:16 そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた。

タイトル画像:Antonio LópezによるPixabayからの画像


はじめに


今回は、受難週の水曜日の記事を取り上げます。
この水曜日をキリスト教の教会暦でスパイ・ウェンズデー(聖水曜日)と呼ぶそうです。今年は、3月27日にあたりますが、この水曜日は聖金曜日に執行されたイエスの磔刑に至る出来事の始まりを告げる日です。

今回はスパイ・ウェンズデー(聖水曜日)の出来事を中心にみていくことにします。

レントカレンダー


ところで、スパイ・ウェンズデーという言葉はあまり聞き馴染みのない言葉かもしれません。受難週の各曜日における出来事を福音書の記事に従って作り上げる習慣は2―3世紀頃からエルサレム教会においてなされていたようです。しかし、4世紀において受難の記事に従うかなり発展した形態の行事がなされていました。現在でもローマ教会ならびに英国教会ではこの1週間には毎日各種の行事が行われています。プロテスタント教会では各教派によって、あるいは国によって扱い方が異なるのでキリスト教文化を知るためには、受難週を知っておくのも必要かと感じます。

受難週とあわせてレントカレンダーを紹介しますが、図のようにイースターに向けて準備するようです。

By Cmglee - Template:Smrdak, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org

スパイ・ウェンズデー


上の図を見ていただくと、受難週の水曜日をSpy Wednesday(スパイ・ウェンズデー)と表記されています。

なぜ、聖水曜日をスパイ・ウェンズデーと呼ぶのかと言いますと、それは、イスカリオテのユダがイエスを裏切る行為にちなんで呼ばれるということです。このSpy(スパイ)という言葉は、「待ち伏せ、待ち伏せ、わな」を意味します。さらに、弟子たちの中でユダは密かにスパイしていたのであり、水曜日は彼がキリストを裏切ることを選んだ日でした。

サンヘドリンによるイエスへの殺害の計画

新約聖書の受難週の記事では、この水曜日にサンヘドリン(ユダヤにおける最高裁判権を持った宗教的・政治的自治組織、最高法院とも)が集まり、ペサハの祝日(過越の祭り)の前にイエスを殺害する計画を立てました。

マタイによる福音書
26:1 イエスは、これらの話をすべて終えると、弟子たちに言われた。
26:2 「あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」
26:3 そのころ、祭司長、民の長老たちは、カヤパという大祭司の家の庭に集まり、
26:4 イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

マルコによる福音書
14:1 さて、過越の祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていたので、祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕え、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。
14:2 彼らは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから。」と話していた。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)


ベタニヤのマリヤがイエス・キリストに香油を塗る

イエス・キリストが十字架にかけられて亡くなる前の水曜日、イエスはベタニヤのらい病人シモンの家にいました。イエスが弟子たちと夕食の食卓に座っていると、ベタニヤのマリヤがイエスの頭と足に高価なナルドの香油(スパイクナード)を塗りました。

ヨハネによる福音書
12:1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
12:2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
12:3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

この光景を実た弟子たちは憤慨します。なぜなら、1年分の男性の日当に値する価格の香油でした。現在に置き換えるとおよそ300万円もした香油の量でした。

ところで、ナルドは、おみなえし科の宿根草で、今ではすでに古典的香料の一つであり、簡単に入手できないそうです。オミナエシ科なので、あまりよい香りとはいえないそうですが、古代ローマの婦人には好まれた香料ということです。そうしたこともあって、現在ではあまり使われてはおらず、インドでは今も髪の香料として用いてにすぎず、今日ではヒマラヤ山中の村々細々とで栽培されているということです。

とは言いましても、化学が発達した現代、合成香料が氾濫した時代とは異なり、香料も限れていましたから、今の人にとってはあまりいい匂いとは言い切れないものとしても、とても高価なものであったのには間違いないでしょう。

ところが、マリヤは香油を壺ごと注いだのであります。一滴や二滴ではありません。300万円分を一気に注いだのです。

マタイによる福音書
26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。
26:9 この香油なら、高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」
26:10 するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

憤慨する弟子たち

私たちも惜しげもなく300万円もの香油を注ぐ光景を見たらどう思うでしょうか。

前にホストクラブのニュースを見たことがあります。女性が自分のパーティーをするためにシャンペーンタワーに、惜しげもなく何百万円もするシャンパンを注ぐシーンを見たときに、驚きともになんて勿体ない、刹那的すぎると閉口したことがあります。

画像:sayo31 AC Photo

同じように、マリヤのしたこともホストクラブの女性と同じような印象を普通は思うかもしれません。

当然のことながら弟子たちは「何のために、こんな無駄なことをするのか」と憤慨するわけです。私も、その場にいたら、マリヤ止めろ!と叫んで制止するかもしれないと思うのです。

高価な香油を壺ごと全部注いだというところにも、マリヤの信仰と献身を見ることができます。マリヤはイエス・キリストが、何度も自分が死ぬことが近いことを語っていました。また、愛する兄弟ラザロが死んで蘇えらせてくださったことに対する厚く深い感謝を持っていました。

彼女の思いは、主イエス・キリストが自分にしてくれたことへの感謝は、300デナリの香油では足りないと感じていたことでしょう。

ところが、人はその人の深い感情の意味を推し量ることはなかなか出来ないものです。特にマリヤの姿を見たときに、一般的にどう思うのかといえば、頭が変になったのではないかというように疑うものです。

イスカリオテのユダの嘘

他方、ヨハネによる福音書の並行記事を見ますと、マリヤに対して咎めたのはイスカリオテのユダであると指摘しています。ユダは、私たちが思うような勿体ないという一般論から責めたのではありませんでした。

12:4 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。
12:5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
12:6 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

ユダは、十二使徒の会計係でしたが、その金を盗んでいたからであるとヨハネは伝えています。窃盗の罪を覆い隠すために、マリヤを責めたと証言しています。

ユダの罪の心理とはなにか


人は、自分を正当化するために自分の罪を覆うために人を攻撃することがありますが、これを心理学的には、「投射」と呼ばれます。

投射は、個人が自分の気持ちや欲望、あるいは負の感情や欠点などを他人に押し付ける心理メカニズムです。つまり、自分が感じる罪悪感や恥、不安などを、他人が悪いとか非難されるべきだという形で外部に向けることで、自己を守ろうとする行動です。

他に関連する心理メカニズムには、「プロジェクション」と呼ばれるものもあります。これは、自己を保護するために、自分の否定的な特性や行動を他人に投影し、自分ではなく他人を攻撃することで、自己評価を維持しようとする行動です。

このユダがマリヤを攻撃したのは、個人が自己の脆弱性や罪悪感から逃れるために他人を攻撃する典型的な心理的なプロセスでした。

もったいないとか、他の人のために役立てるためにという一般論からマリヤを責めたのではなく、自己防衛の手段として一般論を持ち出したということろにユダの罪がありました。

ユダは、当然のことながら、イエスは自分の言い分を支持してくれるに違いないと思ったのでしょう。ところが、意に反して、彼の非難を指示するどころか、イエス・キリストは、マリヤを弁護します。

マルコによる福音書
14:6 すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。
14:7 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
14:8 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。
14:9 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

ユダは、このときのイエスが、自分の心を看破されたと見るやいなや、彼はイエス・キリストに対しても憤慨をするわけです。イエスを敵対するサンヘドリンに売ってしまおうと思いつき実行に移します。

内面を知られることへの忌避

人は自分の心を看破されるのを嫌がりますが、心理学的には、他人に心を看破されることへの嫌悪感や恐れは、プライバシーの侵害や自己の脆弱性や秘密が暴かれることへの不安から生じる可能性があるといいます。その理由を3つほど挙げますと次のようになります。

  1. プライバシーの侵害への恐れ
    人は自己を保護し、自己の内面的な世界を秘密にしたいという本能的な欲求を持っています。他人に心を看破されることは、このプライバシーを侵害されることとして認識され、それに対する抵抗感が生じる可能性があります。

  2. 自己の脆弱性への恐れ:
    他人に自分の心を見透かされることは、自己の脆弱性や内面的な不安に関する情報を暴露することと同義であると感じられるかもしれません。自己の脆弱性が他人に晒されることは、心理的な安全性や自己価値を脅かす可能性があります。

  3. 自己のコントロールを失う恐れ:
    他人に心を見透かされることは、自己のコントロールを失うことと結び付けられるかもしれません。自分の心をコントロールできない状況や感情が他人に露呈されることへの不安から、心を見透かされることへの嫌悪感が生じる場合があります。

これらの心理的な要因によって、人々は他人に心を看破されることを嫌がる傾向があります。

暴かれるぐらいなら何でもする人の心理

こうした傾向が人間を苦しめ、罪を正当化し、すり替え、ユダが銀貨30デナリで引き渡した理由でもあります。30デナリと現在の価値でいえば30万円ほどです。ユダはたった30デナリを手に入れるためにイエスを売ったのではありません。自分の秘密や内面が暴露されるくらいなら、タダでもイエスを売ったことでしょう。

300デナリの香油でも足らないと感じていたマリヤ。一方30デナリで救い主を売ったユダ。双方には金の価値だけでは説明できない大きな隔たりがあります。

一言でこの二人の差異を語るとすれば、その違いはどこにあったのかといえば、イエス・キリストと自分のどちらを愛していたのかということが問われる事実でもあります。

人間の心はしばしば複雑で、自分の欲望や罪を隠すためには時に非道な手段に訴えることがあります。マリヤとユダの対照的な行動はその一例です。マリヤは自己を捧げ、愛を示すことで、自らを犠牲にすることを選択しました。一方で、ユダは自らの罪を隠すために、他者を攻撃し裏切りました。

ユダにおいては、イエスに内面を看破されたことに対して、生かして置くことはできないと考えたのでしょう。しかも、彼は狡猾でした。自分の手でイエスを殺害するのではなく、彼の命を欲しているサンヘドリンたちに委ねるという手段をもってイエスの殺害を企図したのです。


こうした一連の出来事は、神のご計画であったこととして、ユダの姿を見てしまうものですが、同時に、我々の内面にある姿をも暴露させられた記事として受け取ることができるものです。

ユダと私たちは時代的にも離れ、イエス・キリストの十字架のきっかけを演じた罪人として彼をとらえてしまうものですが、いや、そうではなく、私たちの自分を守ろうとする防衛反応の姿そのものであるということを見つめなければなりません。

ユダの行動は、罪の内面を看破される恐れや自己保身の欲求から生じたものでした。彼は自分の内面がイエスに見透かされ、その罪や狡猾さが露呈されることを避けるために、イエスの殺害を企てました。この行動は、彼の内面的な葛藤や自己の欲求と、外部世界との関係における不安定なバランスを反映しています。

こうしたユダの行動を通して、私たちは自らの内面にある欲望や葛藤、そして自己保身のためにどのように行動するかを見つめる機会を得ることができます。

私たちはユダと同様に、時に自己を守ろうとする防衛反応や罪深さに直面することがあります。そのようなとき、ユダの物語は私たちに自省し、悔い改め、変化する機会を与えてくれます。十字架にかかられるワンシーンとしてユダが選ばれただけでなく、ユダと同様の精神構造を持っているという気付きが神のご計画の中心であります。

神のご計画に、ユダの裏切りが挿入されていたのは、私たちの闇の部分を明るみに出すため、また、その闇の部分を隠し続けるのか、それとも主イエスに明け渡すことを求められているのかの二者択一を迫っていることでもあります。

目の日曜日


本日は、教会暦でいうとOculi Sunday(オクリ・サンデー)という日に当たるそうです。オクリという言葉はラテン語で「目」という意味を持ちます。ラテン語で「目」を意味するオクリは、特に神から私たちに与えられた信仰の目、つまり私たちの人生と救いに関わる神の事柄を見る目を指します。

オクリの週は、戦わなければならない内と外の霊的な戦いに焦点を当てています。古来オクリは、クリスチャンには多大な犠牲が要求されていたといわれております。そこでは、イエスは世、名誉、所有物、楽しみ、楽しみを含むすべてを放棄するように呼びかけられているという聖書の言葉を聞いたそうです。

つまり、自分の心の眼差しをイエス・キリストに向けることに心を費やしていたようです。つまり、なにが語られていたのでしょうか。それはマリヤが香油を捧げたような献身です。

私たちは、今回のメッセージから何を語られたでしょうか。自分を神にさらけ出せる勇気でしょうか。それとも、墓にまで秘密を抱えたまま死ぬまで耐えることでしょうか。主イエスは私たちのすべてを知っておられます。

今日、私たちは主イエス・キリストに心を向け、自分の隠していることを告げてはいかがでしょうか。主イエス・キリストは罪を告白する者に罪を赦してくださるお方です。アーメン。

Ⅰペテロの手紙
3:12 主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」