見出し画像

私の隣人とは、だれのことですか

Mylene2401によるPixabayからの画像


ルカによる福音書10:29
しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」

2022年7月17日 礼拝

ルカによる福音書10:25-42
10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
10:26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」
10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」


| はじめに

今回は、ルカによる福音書を取り上げていきます。そのなかでも特に有名な箇所が、今回のみことばになります。主題は、『良きサマリヤ人』と『マルタとマリヤ』という2つのメッセージが含まれます。普通は、それぞれが分割されて語られる場面かと思いますが、著者ルカは分割されたものとは考えていなかったように思われます。それぞれをつなぐ神のみこころというものを据えて見たとき浮かび上がるものが見えてきます。


| ためす律法の専門家

ルカ10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

25節に『すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。』とあります。なぜ、律法の専門家は、試そうとしたのでしょうか。彼がイエスを試した理由として、この前の22節にイエスが神の子であり、すべての権威を委ねられたものとして人々に告げる場面があります。
律法の専門家からすれば、旧約聖書の御言葉がイエス・キリストの出現によって、拠り所とされた律法の価値が失われることや、自分を神と同等の位置にあると公言したイエスのことばに強く反応したと思われます。
 
 つまり、イエスのことばは、律法の専門家にとって危機的なことばであるのと同時に、自分たちのアイデンティティが、イエス・キリストにより喪失するということを即座に察知した上でのことばでありました。
おそらく、彼は、落ち着いてイエスに質問したというよりは、語気を荒らげていたのではないかと思われます。

 さて、その質問の内容ですが、「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」というものであり、イエスがそれまでに語った、自分の神としての権威と神のさばきに関して、キリストの側に立つ者の報いというものは一体何であるのかを的確に問い質したいというものでした。ところで、サドカイ人、パリサイ人 たちは、死後に関しては双方議論の分かれるところで、死後はないとするサドカイ人、死後はあるとするパリサイ人らの間で神学的に対立していました。
こうした見解が分かれる部分で、イエスはどういう回答をするだろうかと律法の専門家は考えていたのでしょう。また、同時にこうした微妙な神学的な議論が呼び起こされる部分においての質問は自分は神と同等であり、権威者であるとするイエスのことばの言葉尻をとらえて告発するにも好適な質問でありました。

話を戻しますと、なぜ、律法の専門家が立ち上がって、イエスに質問したのかという動機についてあらためて見ていきたいと思いますが、今回取り上げる箇所の前に、主イエスの圧倒的な力と歓喜が伴った権威あるメッセージがありました。律法の専門家は、このイエスの圧巻のことばに圧倒されていたに違いありません。同時に、律法の専門家としてのプライドと聴衆の中にあって律法の専門家は、庶民とは異質な存在でしたから、その存在が目立っていたはずです。ここで、イエスのことばに反証を加えなければならないという意識が働いたはずです。
『イエスをためそうとして言った。』とありますから、ここでの質問はイエスを自分よりも見下した意味を持ちました。知識や社会的な権威において、自分より下の立場にあると考えていたイエスが、想像もしなかったような神のことばを披露したことに憤りと、敵意を強くしたことが、ためそうとした心理を抱いたと思われます。
律法学者らの旧体制とイエスという新体制の、権威と権威がぶつかり合う現場において、この律法の専門家が発したことばは神学的、心理的、社会的にきわめて重要な質問でありました。

| マルタのいらだち

ルカ10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」

イエスたち一行が、ベタニヤ村を訪れると、マルタという女性が一行を迎えます。この場面は、『マルタとマリヤ』として知られる有名な姉妹との出会いについて記された箇所です。
姉のマルタと妹のマリヤ、同じ姉妹であっても、その性質はまるで逆でした。姉はしっかり者でテキパキと家事をこなす有能な女性。一方のマリヤは物静かでおっとりとしたマイペースな女性として描かれています。
姉のマルタは、イエスたちを招くために、部屋を用意し、もてなす準備のために追われます。一行を招くだけの余裕があったことから、割りと裕福な家庭であったことが想像できます。接待のための準備、宿泊の手配などマルタは雑務に追われていたことかと思います。そうした雑務をこなすことが、イエスをもてなすことの最優先として、真っ先に取り組むべきことと心得ていたマルタは、他の人々に混じってイエスのみことばに聴き入る妹マリヤの姿に憤りを持たずにはいられませんでした。

このもてなしの場での優先順位を問われたときに、その第一番にするべきことは何かと問われたときに、普通の人であれば、イエスという賓客をもてなすことと考えるでしょう。それが、空気というものです。
空気を読まない、読めないとマルタは、マリヤを思っていました。
そのマリヤを何とかしてほしいと願ったのが40節の言葉です。マルタはイエスにこう言います。

「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」

その言葉に対して、イエスの優先順位はみことばにあるということをマルタの気持ちを理解しつつ、とりなしました。
マルタとしては、妹が自分を手伝うのは常識と考えていたでしょう。自分が忙しなくもてなしているのを、気がつかないのは、どうしたことかと思うのは、私たちが普通に思うことです。
教会の中でも奉仕ということがあります。人を招くために掃除をしたり、食事の準備、礼拝の準備など様々な働きがあります。奉仕とはいっても、それは賃金をいただかない、無償の労働です。
たとえ、賃金をいただく労働にしても不満は出てくるものですが、こと奉仕ともなると、神の祝福と、周囲の感謝がその労働の対価ですから、大変な奉仕であれば、目に見える対価の無い奉仕での不満はなおさらだと思います。
マルタも最初は、喜んで主のために奉仕をしはじめたものと思います。ところが、イエスを追って、大勢の聴衆が駆けつけ、マルタの家に入りきれないぐらいの人が詰めかけてきたときに、自分とお手伝いさんだけでは足りず、猫の手も借りたいという具合になってきたのでしょう。
なにもせず、イエスの話を聴きいっているマリヤに憤りを持って当然でしょう。


| 隣人という観点からみて

 こうして、ルカによる福音書の10章後半に登場する二人の人物に焦点を当ててみました。律法の専門家、マルタという二人の人物は男性、女性、階級や階層の違いというものを見ていきますと何の関連もないように感じます。テキストを見ていきますと、段落がありますから、分割されて論じられることが普通なのですが、『隣人』という面からこの二人を見ていきますと、共通する点があります。この二人の登場人物の中に挿入された有名なたとえ話があります。それが世にいう『よきサマリヤ人のたとえ』という話です。話の要約はこうです。

 よきサマリヤ人のたとえ

ある人がエルサレムからエリコに向かう道中で強盗に襲われて身ぐるみはがれ、重症となって道端に倒れていた。そこに三人の人が通りかかります。最初に祭司が現れますが、その人を見ると道の向こう側を通り過ぎて行ってしまいます。次にレビ人が通りますが、彼も道の向こう側を通り過ぎて行ってしまいます。しかし最後に通ったサマリア人は、そばに来ると、この重症の人を助けます。傷口の治療をして、ろばに乗せて宿屋まで運び介抱し、そして翌日になると宿屋の主人に怪我人の世話を頼んでその費用を払ったというたとえです。

このたとえで重要な点として、サマリヤ人の存在が挙げられます。ユダヤ人とサマリヤ人は、イスラエル王国が分裂する以前は同じユダヤ人でした。ソロモン王の死後、イスラエルは、エルサレムを首都とする南ユダ国とサマリアを首都とする北イスラエル王国に分裂しました。その後、紀元前722年に北イスラエル王国はアッシリヤ帝国に滅ぼされ、アッシリヤの同化政策によってユダヤ人とアッシリヤ人が雑婚したことで、異邦人の血が混じった汚らわしいユダヤ人として南ユダのユダヤ人から忌み嫌われてきた歴史があります。

ユダヤ人からすれば、異邦人という存在は、同じ人間と見なさない対象です。その異邦人がユダヤ人を命を救い、生粋のユダヤ人がおなじユダヤ人を見て見ぬふり放置したというパラドックスを示すことで、イエスが語る『愛』の本質を提起した『よきサマリヤ人へのたとえ』です。

 隣人とは

この『よきサマリヤ人へのたとえ』に『隣人』という言葉が出てきます。隣人をギリシャ語では、πλησίον(プレシオン)という言葉です。このプレシオンの意味ですが、『近く』とか、『隣人・友人』という意味になります。
新聖書辞典には、こうありました。

隣人とは、自分の近くにいる者や共同体の構成員ではなく、人間としての助けを必要とする者を指す。自ら進んで隣人になることによって神の律法を真の意味で実践するのである。このような意味において、イエスこそ真の隣人となって律法を成就された方である。

新聖書辞典 いのちのことば社 『隣人』

律法の専門家は、イエスを見下し、同時に敵となり、他方、マルタは、妹マリヤを自分の意にそぐわないものとしてイエスに訴えます。
その両者とも、自分の意に沿わない者に対してネガティブな感情を相手に抱く。マルタは、姉妹という最も近い隣人であるにも関わらず、文句を言ってしまうという関係になっていました。

関係性が近ければ近いほど、イエスの語る隣人からは遠ざかる傾向があります。家庭でもそうです。関係性に上下があればなおさらです。

身分や階級、強者、弱者、優劣というものが覆されようとし、今までの常識が覆る、覆られそうなとき、人間は弱い者に刃を向けるのです。

主は、こうした人間性を見抜き、私たちに向けて、隣人となるように勧めます。隣人というとわかりにくいのですが、『友』という存在になることです。上下や、そこで、偉い、偉くないといったことをイエスは考えておられない。イエスからすれば、私たち人間は、敵と変わらない存在です。しかし、その敵を理解し、愛し、慈しみ、敵対関係を取り除くためにこの世に来られました。それも、自らが武装放棄し、丸腰で私たちを招いた方です。
しかも、共に食事をしてくださるまで私たちに近づいてくださった。この恵みを私たちは忘れてはいないでしょうか。

人を選り好み、自分の気に入った人だけと付き合い、それ以外の人とは口も聞かない。同じ教会にいてそういう人がいないでしょうか。
同じサークル、同じ傾向、同じ価値観。こうしたもので人を判別し、さばく。こうしたことを救われたと信じている人が行っている。
どれだけ、主のみこころを損なっているのではないかと思わずにはいられません。

これは、私自身の心を見たときにも強く思うものです。
どこまで、自分は罪深いのかと思わずにはいられません。

 人間関係を円滑にするイエス

今回、いかがであったでしょうか。自分の心を点検したときに、自分が上であるとか、自分はこんなに苦労しているのにとか思ってはいないでしょうか。そのときに、人を貶める、人に当たり散らす、文句を言うなど、おおよそ友とする気持ちなど起こらないことが普通です。

しかし、イエスを受け入れた者はそうであってはなりません。イエスが私たちの友となってくれた以上、私たちも人との友となる力を主イエスから豊かに頂いていく必要があるのではないでしょうか。

イエス・キリストは人との人間関係の回復をもたらしてくださるお方です。嫌いな人であっても、肌が合わない人であってもイエスならば、あなたに良き人間関係をもたらしてくださる力があります。
いかなる人をも愛してやまないイエスは、あなたが人との関係において愛ある関係性が実現することを期待していますし、実現してくれるお方だと信じて委ねていこうではありませんか。