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『エンドロールライナー』A班観劇感想

※福井しゅんや氏『エンドロールライナー』の軽いネタバレを含むかもしれません。

2021年11月14日日曜日三栄町

私は今日(2021年11月14日)舞台を見た。
場所は三栄町 LIVE STAGE。お世辞にも大きいハコとは言えない劇場だ。

そこで見たのは福井しゅんや氏作・演出の『エンドロールライナー』。所謂fukui劇と称される舞台のvol.9で、私は同氏の『青遠藤家の恋愛と殺人』、『2108 年岐阜五輪正式競技 WAITING』、『うねる物語(ペン)~世界を穿つガールズ・ハイ~』を観劇している。

過去に見たこの三作品全てこの三栄町 LIVE STAGEで公開されており、福井氏で三栄町と言えば、お馴染みのねと理解できるほどに、劇場までの道も軽い足取りで手慣れたものだった。

なぜ彼の舞台に縁があったかと言うと、大学時代に働いていたイタリアンバルでお世話になった先輩が俳優をしていて、その先輩がfukui劇に出るからということだった。

それまでは舞台なんてものを見る機会は全くと言ってよい程なく、小学校の頃の社会科見学的なものでわからないまま連れて行かれて見た経験はあったものの、恐らく自ら進んで見るのはfukui劇が初めてだったかもしれない。

生憎自分はドラマや映画で繰り広げられる日本人のドメスティックな演技を耐えることが出来ない。妙に演技クサイというか自然体ではない様子で繰り広げられるそのストーリーは、物語が面白くても追っていくことが出来ない。

だから昔から好んで見るのは洋画や海外ドラマだった。そういうこともあって、舞台という役者の演技が生かされるであろう世界を自ら進んでみる気にはなれなかった。

素人にとやかく言われるプロの腹立たしさたるや

私は演技や舞台に関する知識などは素人に等しい。一国の主すらも驚く最高級のシルクすらも凌駕するほどぺらっぺらな知識しか持ち合わせていない。

だからこの感想も、もし『エンドロールライナー』を書いた福井氏や役者の方々に読んでいただけた場合そうじゃねえんだよなぁと、思われるかもしれない。

生憎自分も一応プロのライター(笑)を名乗りつつ、趣味で長らく小説を書いてきたから、受け手の感想や批評の理不尽さの腹立たしさは理解しているつもりだ。

でも創作家と消費者の間には圧倒的な上下関係があって、創作家は取捨選択を許されてはいるものの、大抵の意見や感想というものは受け入れなければならないと私は思っている。

だからもしこの感想を読んで、不愉快になる人が居れば、是非文句を言ってもらえればと思う。取り合うあうかは別として。

でも超上から目線で言わせてもらえば、わざわざブログの記事を一つ使って感想を書いている。この事実だけで、この舞台が好評だったのか、悪評だったのか理解してもらえるはずだ。私が根からの悪人でない限り。

「現場は生き物」という擦られすぎた愚言

先程私は日本の日本人的である演技演技した演技が嫌いであると述べた。でもそれと同時に私は日本人の舞台が大好きだ。それに気付かせてくれたのは紛れもなく、私を舞台へ誘ってくれたバイト先の先輩であったし、その期待値を軽々と越えてくれたfukui劇であることは言わずもがなだ。

なぜこれほどまでに舞台が好きであるかと言われれば、私は舞台の一期一会的要素が好きなのだと思う。

現場は生き物なんて言葉がある。それはどちらかと言えばマイナスな意味で、いつどんなことが起こるか予想できないから気を付けようみたいな、そんなニュアンスだろう。舞台は生き物。素人目に見てもそれは理解できる。

例えば役者が噛んだり、今日は喉が枯れ気味だったり、音楽が上手く鳴らなかったり、照明の位置をミスったり。そんな予測不能の事態を観客に悟られることなく場を乗り切る、臨機応変力と言おうか。

現場は生き物だというのはそういうことに際して使われているはずだ。

でも私の感じる舞台は生き物という感覚は全く以て違う。

映画の良さとは何だろうか。それはいつも変わらない面白さがそこにあると言うことだ。

私が好きなバックトゥザフューチャーは何回見ても、面白く、最高の感動をもたらしてくれる。いつもマーティは同じセリフを言うし、同じ所で息を吸う。同じ時間に同じ表情をして、最高のタイミングで音楽が流れて、機械が作動して、大団円を迎える。

そう映画は基本的に完璧な状態で視聴者の元に届けられる。一度完璧を作ってしまえば、何度も放映しようとその点数が変わることはない。

しかし舞台は違う。例えば今日出ていた役者だって昨日と今日の演技で自分の中の点数は違うだろう。ああここで噛んでしまったなとか、ここはいつもより気合が入ったセリフが言えたなとか。

もちろん私は映画が大好きだが、舞台と比べると機械的な冷血さを感じざるを得ないということは上の文章でわかってもらえるだろうか。

役者の息遣いが聞こえてくるあの空間。空気を介して直接届く役者の緊張感。それは舞台でしか感じることの出来ない感覚だ。

役者が生きている。生きた人間が役を演じている。それこそその役になりきらなければならない演者からすれば、本来の自分を舞台中に見出されるのは本望ではないのかもしれない。でも私が、その自分と同じ血が通った人間が「演じている」と認識できる舞台に価値を見出していることは確かだ。

ましてや舞台というのは大抵一週間から二週間くらいで全ての講演が終わってしまう。劇団四季とかのレベルになれば十年近くライオンキングをやっていたりするが、それでも一日とて同じ舞台はないだろう。

この私が見たのは2021年11月14日に行われたA班の『エンドロールライナー』だ。この舞台を見たのはあのハコにいたたった30名ほどの人に過ぎない。

人類70億人の時代にたった30人という価値、これを理解できる人はいるだろうか。この稀有で儚い感覚を味わえるのはこの舞台の醍醐味だろう。

コメディを書く度胸と才能

私は小説を書くと先述したが、生憎コメディを書いたことは一度もない。いや正しくは書けたことが一度もない。

大ジャンルと称されるファンタジー、SF、恋愛、ミステリー、ホラーなどある程度のものは全て一冊分ほど書いたことがあるが、唯一コメディのみは無理だった。

人を笑わせようとするボケや会話劇が、自分で推敲する際に、寒すぎて悪寒が走ってしまうので私はコメディを最後まで書き切れたことはない。だからこそコメディを書くことが出来る人は尊敬するし、それで会場を沸かせるほどの笑いを描けるのは一握りの才能なのだろうと思う。

奇しくも似非ライター気取りの私と縁があったfukui劇はどれも笑いとして面白く毎回ゲラゲラと笑わせてもらっている。役者の表情やセリフの言い回しもそうなのだが、やはり言葉選びのセンスが福井氏にはあるのだろうと、素人目にもわかる。

恐らく自分でコメディの作品を書いたら、自らのボケが通用するのかどうか心配で人に見せるには至らないだろう。というかそもそも書けないと結論づいているが。

だがそれも最初の方に見た『青遠藤家の恋愛と殺人』『2108 年岐阜五輪正式競技 WAITING』と『うねる物語(ペン)~世界を穿つガールズ・ハイ~』『エンドロールライナー』では毛色が変わってきている気がする。

前者二本は最初から最後まで笑いで一貫していた印象があるのだが、後者二本はコメディをやりつつラストの終わり方はシリアスというか、コメディだけでは終わらせないという作者の何かこだわりのようなものを感じた。

特に『エンドロールライナー』では不覚にも涙が浮かぶほどの感動を覚えていた。コメディ作品におけるこういった感動系への路線変更というのは人によっては毛嫌いする印象があるのだが、個人的には大好物だ。

旅郎のナイフを持っていた理由や、旅郎が決意するときに流れていたフラワーカンパニーズの『深夜高速』。展開としては明らかなお涙頂戴であることは確かなのだが、あの突然のシリアスに、私の涙腺はしっかり罠に嵌っていたことは確かだ。

それどころか登場人物のほとんどが幽霊であり、言葉通り滅茶苦茶なコメディをしていた走馬灯が全て伏線というかブラフだったと思えるほどに着地というのが綺麗に決まっていた印象がある。

もう二度と見ることのない11月14日の『エンドロールライナー』は生憎私の大嫌いで大好きな感情であるノスタルジーの糧になったことは言うまでもない。

小説と舞台の大きな違い

舞台の話をしている最中に、他の舞台の話を取り上げるのはどうかと思うが、ここはひとつ。

先日見た『Letters』という舞台のアフタートークで、同舞台脚本家の大塚健太郎氏が「小説を書く人は凄いですよ」と言っていた。

それも彼は脚本などを俳優たちと相談しながら調整しているから、全てを一人で行う「小説を書く人は凄い」と言ったのだった。

小説を書いてきた自分からすると、脚本家の方が凄いと言うのは目に見えているだろうが、それは恐らく小説と脚本で求められているのが大きく違うからだと思う。

私が思うに小説家は具体化が上手く、脚本・演出家は抽象化が上手いのではないかと思う。

小説における世界というのは、例えばポストアポカリプスなら崩壊した世界を、SFなら科学が異常発展した世界を、ファンタジーなら魔法で発展した世界を、文句を付けられないように具体的に構築することが求められる。

しかし舞台作家というのは舞台というたった一つの場所に展開する物語をなるべく抽象化して世界を構築する必要がある。

今日の『エンドロールライナー』で言えば、観客席から見て左側につけられた車のハンドルや、車の座席として置かれた黒い箱など。あとはスクリーンを使っていたり、そこら辺で買えそうな家具が置いてあったりするかもしれない。

でもたったそれだけで、いくつものシーンをその舞台で繰り広げると言うのは作家にも観客にも膨大な想像力を求めるだろう。

小説は簡単だ。白地に黒い文字で作家のオナニーさながら、俺が考えた最強の世界をつらつらと述べるだけでいい。

だからこそ舞台に必要になって来るのが役者なのだろうと私は思う。

役者がそこにいるだけで、そこは環七にも、エンドロールライナーの車内にも、どんな世界にもなりうる可能性がある。

そこが小説と舞台の大きな違いで、小説では登場人物が世界で生きている。舞台は登場人物が世界を生かしている。

世界を生かす俳優

『エンドロールライナー』には魅力的なキャラクターが沢山登場した。一人何役やっているんだと笑ってしまいそうなほどに衣装が変わる彼らのなかで印象に残った役や役者の感想をいくつか述べる。

蛭沢旅郎

結局のところ『エンドロールライナー』の涙というのは旅郎の涙に由縁する。

私が日本人に限らずあらゆる俳優の演技で嫌いなものがある。それは泣く演技だ。

顔をくしゃっと歪めて、絶叫なり激昂なりする姿。もちろんそれに心打たれることは大いにあるが、結局「涙出てないやん。せめてカットして目薬くらいしろや」と俳優の演技に冷めることが多い。

しかし彼は劇中の終盤、激烈な演技の果てに涙を流した。これは俳優としての演技で嘘の涙かもしれない。でも観客である私にとってその瞬間のみは、そこに蛭沢旅郎が確かに自らの死を嘆いているように見えた。

今迄多いとは言い切れない舞台を見てきたが、登場人物が確かにそこにいる感覚を覚えたのは、今日が初めてだったかもしれない。

三途ノ川天子

凄いとしか言いようがない口数の多さは本当に圧巻だった。それこそ彼女が言ってしまえばただの役で役者がいるという事実がある時点で、赤の他人が書いた膨大なセリフというものを覚えて、しかもほとんど噛まずに言い切るその姿は役者という職業の凄さを感じさせる。

薄見真実子つよい・花村せつ香・カゲイチ

男子中学生、わんぱく女子小学生、OL、DV夫と滅茶苦茶振れ幅のある役を一人でこなしていた女優がいた。それこそ真美子つよいの時は男か女かわからないけど女の人なんだろうなぁと思っていたし、カゲイチとして出てきた時はえ、さっきの男子中学生かよってなったし、せつ香として出てきた時はこんな綺麗系の人出てきてたっけ?と頭が良い意味でぐちゃぐちゃにされた。役者という職業の凄さを感じさせるパート2。

死ん堂黄泉死・拳死ロー・ボス・丹後陣平

何を隠そう、イタリアンバルの先輩。なんか回を重ねるごとに変な格好をさせられているなこの人って感じ。

先輩と後輩というリアルの関係性があるからこそ、コスプレよろしく変な格好で出てこられると笑いどころじゃないのに、普段の姿を思い出して笑ってしまう。でもどんな格好をしていても滅茶苦茶吹っ切れて演技する姿とかは役者という職業の凄さを感じさせるパート3。

全く知らない人たちが出ている舞台より、知っている人が出ている舞台って言うのは、終わった後に面白かったですと一番新しい生の感想をすぐに伝えられるのが醍醐味だなと思う。

飲みに行こうと思っていた予定をすっ飛ばして家に戻ってきたワケ

本当は今日、この舞台を見た後に、どこかに飲みに行こうと思っていた。まあそれも久々の休日だと言うこともあり、すべて忘れて緊急事態宣言が明けた呑み屋を楽しんでもいいかなという思いがあったからだ。

でもこの『エンドロールライナー』を見た後そんな気持ちは全くなくなっており、ダッシュで家に戻り、パソコンを叩いている。

良い文章には良い物語が必要というのが、私の書く上でのモットーで、ある種良い作品を判別する基準になっている。

良い物語を見た時に私の手は震える。薬中みたいな言い方をしたが、その実映画や舞台やドラマを見た後に感化された心というか頭の中から、感想や気持ちが文章となって溢れ出している状態のことを差している。

先程も新鮮な生の感想を言える喜びについて少し言及したが、感想というのは腐るのが早い。多分生菓子とかより全然早い。

自分で言うのもなんだが、この感想文は結構良い文章にはなっていると思う。でも恐らく見た直後に溢れていた感想と比べれば、雲泥の差であることは確かだ。
四ツ谷から家に帰るまでの電車や、赤信号、休日であるがゆえに溢れた人でふさがれた道など。時間を代表とするありとあらゆるものがフィルターのような役割を果たし、不純物を取り除くがごとく、本当はもっとあったはずの感想をこそぎ落としてく。

それが酒を飲んだ後になろうものなら、客には出せないほどに傷んだ食品になっているだろう。だから今日の帰り道、イヤホンからは何も流れずただノイズキャンセル機能のみが動いていた。

感想というどこにでも溢れているようなものは全てのものがノイズになりうる。だからこそなるべく不純物の少ない感想を世に。

そう思わせられるほどに『エンドロールライナー』良い舞台だった。

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