見出し画像

お茶碗に残る一粒の米粒

「ごちそうさま」
「食べ終わったら、台所まで食器運んで」
「…」
「運んでや」
「…」
「聞いてる?」
「…」
「茶碗にご飯粒残ってるやん」
「…」
「きれいに食べてや」
「…」
「つくった人の気持ちを考えて」
「…」
「もう、早う」

こんな親子の会話は、日常茶飯事ではないだろうか。
「…」
で、ある時点で会話ではないか。

「茶碗にご飯粒残ってるやん」「つくった人の気持ちを考えて」とあるが、本当につくった人の気持ちを考えているのか?
ご飯粒は、時間が経てば経つほど、お茶碗から取れない。
食器洗いで、これほど面倒だと思うことはない。
餅米は固まるとさらに取れない。
一晩お湯に漬け込まないと。

「茶碗にご飯粒残ってるやん」は、言い換えると、「洗うのめんどいやん」と同義ではないだろうか。
子どもになんとなく、「つくった人の気持ちを考えて」と説明するも本当にそうなのだろうか。

本当であれば、炊飯器のご飯も一粒たりとも残していないはずだ。
ただ、炊飯器のご飯粒こそ、潰れてしまって、残さず全て食べ切るのは、至難の業である。

言っていることとやっていることに矛盾が生じている。
子どもはすぐに見抜く。
自分に正直に説明するのは難しい。
なぜか。
変なプライドがあるからなのか?
大人は子供より偉いと思っているからなのか?
子どもには「ウソをつくな」と言うが、自分は嘘をついている感覚すらないからであろうか?

明日からは、正直に言おう。
「洗うのめんどくさいから、食べ終わったら早く食器運んで」
「そんで、水につけといて」
「美味しいご飯が食べられるのは、丁寧にお米をつくってくれる人がいるからだ」
と。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?