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自己表現と罪悪感のアンハッピーセット

昔々、東京の下町に
とあるちびっこがおりました。

その子は歌うことが大好きで
わがままで
自己主張も自己表現も大好きでした。


そんなある日起きた、ある出来事。


家の目の前に住んでいた
同い年のお友達Zちゃんと
家族ぐるみでのお付き合いがあり

Zちゃん母は
是非、さくらちゃんも
合唱団に行ってみない?と
誘ってくれたそうな…

あ、冒頭のちびっこは
わたくしめの事ですね。はい。

そして、合唱団に入ると
楽しくて楽しくて。

歌うことが楽しくて、楽しかったので
とても楽しかったのです。
(語彙力マイナス2億)



そんなこんなで
幸運にも合唱団の選抜メンバーに
選ばれることになり

とあるレコーディングに
参加できることになったんです。

なんかわかんないけど嬉しいー!!!
やったー楽しいーー!!!!
と、思っていたけれど

わたしの母は違かったんですね…。

もう、喜怒哀楽の哀のみでしたね。
いや、それに、加えて「困」「焦」とか。

どうしよう……どうしよう…………と。


もはや、とっても大事にしてた
クラリネットでも壊れたのかというくらい
パッキャラマオパオパオパパパな面持ち…

どうしよう…………

どうしよう…………

母から放つ黒い渦が
部屋ごと飲み込みそうな勢い。


ようこそ罪悪感の入り口へ


どうやら
家の目の前に住んでいる
Zちゃんは選抜メンバーに
選ばれていない、と。

だのに
だのに
うちの子は選ばれてしまった

申し訳無い、なんだか悪い、
Zちゃんは選ばれていないのに…

心優しく、
人を傷つけたくないという気持ちが
人一倍強いのか、ものすごいどんより感…。

どんより。


という理由で
母はパッキャラマオ状態に
陥ってしまった。

それを聴いた、おそらく小1だった
わたしは同じく
「どうしよう…」
「わたし悪いことしちゃったんだ…」

と、黒い渦を放ち始め…
親子同時パッキャラマオ状態に。


我々は、Zちゃんには
このことを言わない。隠す。

コミット完了。


そしてレコーディング当日の朝…


Zちゃんのお家は
お店を営んでおり…

誰かしら、外にいる確率大。

我が家のマンションエントランスを出たら
バァーンと真正面に構えるZちゃん宅。

絶対に、Zちゃん家族に
会わないように、と
タイミングを見計らって…

今だっ!!!!!!と
パッキャラマオ母娘は
黒い渦を放ちながら
息を止めて、顔をうつむいて

くノ一の如くササササーーっと
日曜早朝の町を駆け抜けていったのでした…。


その件をキッカケに
「自分の喜びを無邪気に出してはいけない」
「無邪気でいると人を傷つける」
「思慮深くあらねばならない」
という妙な信念がガチーーーーーっと
出来上がってしまったのでした。


そして現在
こんなに良い歳こいて
未だにその思いグセがあって

人から褒められたり
目立ったり、自己表現すること、
自分の意見を言うこと
 
などなど
ものっすごい抵抗がかかります。
怖くなっちゃう。

その癖、褒められるとめっちゃ嬉しい。


まぁ、このパッキャラマオ事件だけが
罪悪感の原点ではないのですが。

「無邪気になってはいけない」
「考えなしに行動してはならない」
「人を傷つけてはならない」
「褒められてはいけない」
「人より優れてはならない」

という強固な信念を
この辺で建てあげてしまったように思います。

その信念は今の自分にとって
必要なのか?と問うと
「要らない」です。

だから、その信念に
引っ張られそうになっている自分に
「ハッ」と気がつくと

意識的にその想いを
「要らない」と
振り払うようにしてみたり

恐れを感じている自分に対して
「もう、大丈夫なんだよ」と寄り添い、
背中を押すような気持ちになることを
心掛けています。

だけど、未だに
目立ったり、褒められたり
比較されたりすることが怖いです。

んー、今までの恐怖レベルが5億だったとしたら
いまは50くらいですかね。

そのくせ歌うことは大好き。
表現すること大好き。

だから「自己表現したい!!!」
という想いと
「自己主張してはいけない!!!!!」が

真っ向からバチィィィン!!!と
ぶつかり合って、必死で

「自己表現したい」

という欲求をねじ伏せるんです。

以前はそのことに気が付かず


「なんで生きてるだけで、こんなにしんどいんだろう…」

大したことはしていないのに
すぐに疲れてしまう自分に
ものすごく怒っていました。

他にもいろいろと
生きづらさを抱えまくっていて

そのエネルギー消耗たるや…
もう、しょっちゅうダウンしていました。

心からの望みが湧いた途端に
「ダメーーーー!!!!!!」と
抑えつける自分。

敏感すぎて、すぐ傷つき過ぎて
感じたくないことばかり
考えたくないことばかり
聴きたくないことばかり
見たくないものばかり

そしてそれを誰とも分かち合え無い
誰にもわかってもらえない
自分はおかしいんだ、と。

感受性が豊かというか敏感すぎて、
そのON-OFFができず
もう、何も感じたくない
何も考えたくないって、強く強く願って。

まだHSPという言葉が耳慣れないうちに
アメリカの識者の方が
highly sensitive personという言葉を
しきりに使っていたのを聴いて

これ…まるっきり
自分のことだ…と認識した7年近く前。

じゃあとうするって
自分を大切にしましょう、とか
境界線を引きましょう、とか
知識としてはわかったけど
やり方がわからなかった。

パートナーからは
常に、もっと自分を大切にして…と
言われていたけれど

それができない自分を責めるという
悪循環でしかなかった。


自分の言う事は人には通じないだろう、
わかってもらえるわけがないといった
自分を構築している信念があって。 

そんなややこしいものを
作ろうとしたわけじゃないけど
生きるうちに、そうやって
思い込んでいったわけですね。

そのややこしい自分を
いかに亡き者にしようかと必死な日々を
送っていくうちに

ちゃんと鈍感になれて
感情をあまり感じないようになり
物事を考えられないようになり

人の言葉がわからない。聴こえない。
聞こえても音としてのそれだけで
意味がわからない。

目が開かなくなって
いつも、眠たいの?と聞かれたり 
目に物は映れど
ぼんやりとしてよくわからない。

それで目の手術もしたんですが…
それはまたの機会に。

もう、いろいろ感じすぎてしまうという
エピソードについては
枚挙に暇がないがないのですが
まぁ要するに鬱状態というか
無気力になってしまって

そして、人生は自分の精神状態が
どうこう、ということ
それだけじゃなくて、人と関わる上で
あらゆる事が起こる。

ヘトヘトでした。ぐったり。
生きるの大変。

夜になれば、「今すぐこの命を取ってください」
と、真剣にお祈りをするほどでした。

話は戻って… 


不幸自慢みたいな
エピソードが続きましたが

一番伝えたいことは
自分を出してはいけないという
強い否定感があったからこそ

わたしが自己表現できた時の喜びは
常軌を逸脱しているような気がしています。

ただ、その喜びが
他の人と比べて常軌を逸脱している
などという
大それた、おこがましいものではありません。

喜びというものは
絶対的に平等であると信じています。

ただ、わたしは
常軌を逸脱するほど、味わいまくりたい
感じまくりたいという欲求が、
誰よりもものすごく強いように思います。

欲求。好きの度合い。
没頭、夢中の度合い。
それが強いだけのことで。

感じたい、感動したい
味わいたい、味わい尽くしたい。

だから、決して
ネガティブな思いこみを抱えていたことは
無駄にはなっていないし

むしろわたしの生きる喜びを
強くしてくれたようにも思います。

つまり、「自分を出してはいけない」と
強烈に閉じ込めてきたからこそ
「自分を出していい」という
この両極の振れ幅の大きさがあって。

いま、この「自分を出していい」という
側に振り切っているので
喜びかしかないんですよね。

もし、これを読んでいる方で
自己表現が怖かったり
何かしらの抵抗がある方がいたら

自分を表現することを
怖さや痛みを感じない環境が
きっとあるから、探してみるのも
いいかもしれないです。

わたしはそうしてきました。
あるから。必ず。そういう場所が。

自己表現、自己表現と申していますが
これは言い換えれば
「正直さ」「素直さ」
「ありのまま」「本当の自分」
取り繕わない自分そのもの、のことです。


そういった自分を出すことで
失笑されたり、望まぬ反応が起こりそうな
過酷な環境で戦う必要はないと思います。

ましてや、環境的に
自分を表現するのが憚られるから
自分を隠して、閉じ込めて 
自分を蔑ろにしてしまうことは
非常に勿体無いことだと思います。

あなた、という人間の可能性が
無限であることを思い出して欲しい。

自分にも言い聞かせるようにしながら
このことを伝えたいです。


なりたい自分で在れる場所


いま、自分を取り巻く環境が
望んだものではなくても探せば必ずあります。

自分を表現ことで
痛みを感じる環境や、条件を
抱え込んでしまったから

自分を表現すること=痛み、という
セットが出来上がっているのでは?と

自分を表現してはいけない、
そんな訳がないです。

それは不自然なことだと
誰もが理解できることですよね。

わかりやすい事例を挙げると
ドラァグクイーンの方が
2丁目に行けば、それはもう
蝶よ花よと、喝采ものだと思います。
その美しさのままを誇れる場所ですね。

だけど、地方で
古くからの習わしに則る暮らしが
当たり前な環境で
あのように美しく着飾っていたらどうでしょう。

冷たい視線を浴びさせられてしまう
その可能性が高いですよね。

だけど、その上で
そのようなドラァグクイーンの方が
自分の領域づくりをしたならば
どうでしょうか。

例えば
お店を出して、自分の居場所を作る。

すると、
その想いや生き様や美学に共感、
賛同した人達が集まり出す。

そして、自分の居場所ができるし
誰かの居場所も作れる。

そうやって
正直に生きることを許容してくれる
場所があるということは
自分を救うし、必ず誰かの救いになる。

うまくいけば、ですけどね。
でも、可能性はありますよね。

どちらにせよ
自分を隠さず、正直に生きていれば
時間や手間のかかり方は違っても
居場所はできてしまうということですよね。

居場所を探すのか、居場所を作るのか。

痛みを感じずに
取り組みやすいのは前者であり、
開拓者のような生き方を愛するのならば
後者ですよね。


自分を出す、生き直す


本当は自分を表現することって
無条件に楽しさや喜びを感じるものだ、って
3歳くらいの子とか見てると
そう思わされてしまうものです。

わたしたちも、いま現在
抱えている条件付けが変わってしまったら
自分の価値観が変わります。

自分が「自分はこういう人です」
って思っている条件付けが変わります。

大袈裟に言うと、生まれ変われます。
生き直せます。そう思うんです。

そう信じているんです。
そう確信しています。
だって、そうだったから。

だから、生まれ変わりたいような
心境の方がいたら
「必ず生まれ変われるよ」と言いたいんです。

なりたい自分になっていけるよ、って。

まずは、そんな場所探しから


なりたい自分になろうとしても
否定されたり、痛みを受けたりしなさそうな
安心安全な場所探しをしてみてほしい。

ネットでもいい。習い事でもいい。
コミュニティでもいい。
自分の頭の中だけでも良い。
でも、できるだけ人と関わると尚良い。

そういう環境で少しずつ
自分を出していけば
「あ、大丈夫だ。」って思えるようになる。

そういう環境で
自分を出せるようになったら
そういう環境でないところでも
少しずつ自分を出していけば
「あ、大丈夫だ。」って自信がついてくる。

その「あ、大丈夫だ。」を
増やしていけば
自分を出すことがデフォルトになっている。

この「あ、大丈夫だ。」を
たくさんの人が体験してほしい。

わたしのボーカルレッスンや
これから始めようとしている
オンラインでのセッションで
そういった場所づくりをしていきます。

まだまだ振り返るのには早いけれど
出会ってくれた人達のおかげで
生きられていることが幸せです。

うわ、優等生っぽい発言。

いや、でも本当にそう思っています。

そして、最後に。

誰でも生まれ変われるのだ、
という言葉を用いましたが

もっと、正確に言い伝えるのならば
生まれ変われる、というよりも
「そのままでよかった」です。

何にも変わる必要がなかった。
ありのまま、そのままの自分、
そのままでよかったんだ、と
気づいてからがスタートで。

あなたがあなた以外の
何者かになる必要もなく

それ以上に、あなたが
何か変わろうとする必要もなく。

そのままの自分で
良かったのだ…と気が付けば
そこから、ひとりでに変化変容が始まります。

その変化変容を起こすのに
肝心なことは「ジャッジしない」
まず、これです。
そして、これに尽きます。

だから言いたい。

大丈夫。

心配ないさー!!!!



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