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自分のことを誰もわかってくれないんですか

あんた、またそんな当たり前なこと言ってー…
っていう話しますね。

自分の欲しい物がわからないと
自分の欲しい物って手に入らないんです。

そりゃそうだ。
うん。

でも本当にそうなんですよ。

自分が欲しいもの。 

例えば、これから夏に向けて
欲しいお洋服。  

いま、自分の一番欲しい
夏物の服。わかりますか?

わたし、わかりません。
(ズコーーー!)


そんなやつが語る持論。

5分ほど一緒にお付き合いいただけたら
その心に流れている川の
ちっちゃいちっちゃい小石が
コトン…と動く、かもしれないです。

そのコトン…というエネルギーが
また何かを動かし
その何かがまた何かを動かしていく

かも。

そうなったらいいな。と。
ピタゴラスイッチの装置みたいに。


自分は誰からもわかってもらえない

そうなんですよね。
この事実って絶望的な孤独を感じる
タイミングもある。

誰からもわかってもらえない。 

自分のこころ、内側。 

極稀に、誰かから自分の内側に
触れられる機会ってある、と、思う。

だけど、それをどう感じたのかは
自分にしかわからないんだよね。

自分がどう感じたのか。
どう感じたいか。
どう感じたくないのか。

それは、自分にしかわからない。


わたしは今、トイレに行きたいのだろうか…。
どう思います?

もし、わかるなら教えてくれませんか…。
わたしは自分でわからなくて…

誰か!!!!わたしは今トイレに行きたいのか
教えてください…!!!! 

この通りです!!!
お願いします…!!!!!

今世紀最大の知らんがなですよね
そんな事聴かれても。


わたしは、いまお腹減っているのかな?
わたしは、いま眠たいのかな?

わからないですよね。誰にも。
自分にしか。

ていうか、自分でも実際には
わかろうとしてもわからないと思います。
感覚の話だから。
そんな気がする、っていう話だから。

突き詰めれば
トイレに行きたいかどうかわからない、って
思考しすぎな考え方だと思いませんか?

行ってみりゃわかるのに。

行ってみた。
そしたら出た。出ない。

っていう結果があるだけで。

「じゃあ、やってみよう」って
行動を起こせないから
「わからない」になるだけで。


お腹減ってるわけじゃないけど
なんか食べたいから食べようー

なのか

お腹減ってるわけじゃないから
別に食べたくないわ

なのか


どっちが正しいとかないですよね。

食育とか、健康面を考えたら
食べないほうがいい、とかいうのは
「ルール」の話であって。
感覚の話ではない。

自分が何を選びたいか
何をしたいのか
どうやって生きたいのか、は

自分が選べる。自由。ですよね。本当は。


でも、何を選べば正解なのか

起きた出来事から導き出す
最適解を出さなければならない

そう思っている、信じている

だから、正解が出せない。

わからない。

正解を出すことが正解だと思っている。

本当のことって

本当に自分にとって幸せな人生って
どんなものなんだろう。

これまで

これまで生きてきた中で
手に入れてきた持ち駒だけでしか
勝負できない人生な訳ない。

その持ち駒だって
欲しくて欲しくてたまらなくて
手に入れたものたちなのかどうかも
限りなく怪しい。

もう、これ以上傷ついたら
かすり傷ひとつで致命傷になる

そんな状態で 
自分を守る為に
選択してきた行動によって
手に入れてきた駒だとしたら。

自分の持ち駒をテーブルに並べたときに

大好きなものが、ない
心ときめくものが、ない
無難なやつが、ある
嫌いじゃないやつが、ある

てか、それしかねえ。

と、しても。


そのことは決して
侮蔑していいものではないと思う。

そんなんじゃダメだ、ではなくて
むしろ労いたい。
よく、よく、生きてきました、って。

好きなものを選べなかったんだよ
好きなものを好きって言えなかったんだよ

これ以上傷ついたら
もう生きられないレベルまで
傷ついているその傷

適切に処置することもなく
傷を傷のままにして
それでも生きてきたんだから。

血まみれで骨折しまくって
外歩いてたら
人から心配されたり介抱されたり
仕事も休ませてもらえる。

でも、心の中は見えない。

見えない血を流して、
人からは見えない痛みがあって
それでもその見えない傷をかばって

見えない足をひきずりながら
なんとか生きている。

そのことに自分ですら
認識していないまま

自分で自分を感じることのないまま
自分で自分に触れることのないまま
自分で自分がわからないまま
誰にも自分をわかってもらえないまま

生きづらさを抱えて生きている。

なんでこんな自分なんだろう、って。


一石を投じる。エイッ!


じゃあその自分って
本当に、本当の自分?

自分の思ったことを
そのまま表現して、無邪気にはしゃいで
夢中になって生きる

そんな風に生きることは
自分にはできない、って
思っている自分って何?

自分の思ったことを言ってはいけない自分。

例えば、
むかしむかし、あるところに…

「わたし、ピカソみたいになりたい!」

と言った、
とある小学4年生の子どもがおりました。

すると母親は

「あんたバカじゃないの?笑」
「なれるわけないでしょ」
「ああいう人は特別なのよ」 

「まず自分の宿題も
ロクにできないようなあんたが、
何時間も絵を描いて作品を作るなんて
できる訳ないでしょ」

「馬鹿なこと言っていないで宿題やりなさい」

という事があったそうな…

はい。

こんな風に言われて、なにくそ!って
怒れるタイプと

その言葉を受け取って
自分のものとしてしまう人がいる。

そして、この後者は
「わたしは自分の思ったことを言いたくない」
「馬鹿にされたくない」
「わたしは特別な力がないから特別なことはできない」

という自分になっていく、と。

いや、極端ですけどね。
こんな綺麗に2つ、
白黒分かれるだけのパターンじゃないけど

例えば、の話です。

やりたいことをやらない自分
やりたいことができない自分
できないことができない自分

その自分を、自分だと定義付けて
それを指針として生きている。

いや、ちょっと待って
それ、本当?

自分のやりたいと思った通りのことを
やったら嫌なことが起こりそうだから
やらない、という自分

それ、トリックじゃない?

自分の思った通りのことを
やりたい、のが、本当の、自分。でしょ。

最初に言っちゃってるもん。

「自分のやりたいと思った通りのことを
やったら嫌なことが起こりそう」

「自分のやりたいと思ったこと」
それじゃん。
本当の自分が起こした行動って。

でも、それ言ったら
嫌なことが起こりそう、って
それ本当?

そういう嫌なことが起きたことがあるから
また起こるんじゃないかと危惧している

嫌なことが起きて
ほら、やっぱり。って。

自分はダメなんだ。
自分なんか価値がないんだ、って。

感じたくない。
自分を感じたくない。

本当は思っていることがあるのに
本当はやりたいことがあるのに
本当は、本当は、本当は

って、それ!!!!
それ!!!

その本当は、の後の言葉。
本当の望み。

それです、それ!!

そっちで生きてみませんか、って。

でも、そんなことしたら失敗するかも

嫌な気持ちになるかも

人に嫌われるかも

傷つきたくない

そこ。
そこなんですよねぇ……。
本当の自分を蓋しているのは…。

自分の持ち駒クソ過ぎワロタ

これまで手に入れてきた
持ち駒だけでしか勝負できない

いや、そんなクソゲー?人生って。


お金持ちの家に産まれて
両親からたっぷり愛されている事を
実感しながら 

すくすく無邪気に育って
友達もたくさんできて
みんなから好かれちゃう。
わたしもみーんな大好き!

なんか絵を描いてみようかな〜って
描いた絵。
みんなにめっちゃ褒められる。

ある時、ピカソの絵を見て
時空の歪みを二次元に現している
衝撃を受けて
夢中になって描いた作品群。

周りからもっと見たいって
言われたから、インスタに載せてたら
大バズリして、
画家が職業になっちゃた人生。


っていう人と


まぁ、普通の家には生まれたんだろうけど
両親から愛されてるとか
感じたことはなかったし

そこまで酷いことされたわけじゃないし
まぁ、普通には学校も行かせてもらったし

一応、絵は好きだから描いてる。
父親が絵が好きだったから
その影響なのかもしれない。
でも、父が嫌い。
母が可哀相だった。ずっと。

描いた絵は人に見せたりはできない。
見せられるようなものでもないし。
人とは極力接したくない。
生きるのしんどい。

結局、量販店の事務職に就いた。
今の仕事でお金もある程度はもらえるし
贅沢言っちゃいけないってわかってる。

やりたいことがわからないから
いつも探してて、今度は友達に誘われた
「波動セミナー」に行くことにした。

やりたいこと、探したい。

という人生。


善悪で測る話じゃなくて。

自分が自分として幸せを感じているの
どっちなんだろうっていう話。

前者後者、どっちが劣るかじゃなくて。
どちらだって立派なものです。

ただ生きるということ、それだけで
大変な価値あるもの。

どちらが良い悪いではなくて
どんな生き方をしたいか、の話です。

もう、あるんです。
本当の自分探しとかしなくても。

グランドキャニオンに一人旅しなくても
バンジージャンプやらなくても
マントラ唱えなくても
セミナー受けに行かなくても

もう、あるんです。
本当の自分は、もう、いるんです。

でも出してない。
本当の自分を出していない。
出していないからわからない。

出してはいけないと思っていることすら
もう自分では気付けないほどに
自分を隠している。閉じ込めている。
蓋している。強烈に。

絶対出してはいけない、と
蓋をする心理、行動に
エネルギー注いじゃってる。

自分を出すことへエネルギーを使わずに。
出したら〇〇が起こるから。

この〇〇に気づけばいいだけ。

この〇〇は
他の誰にもわからない。

自分にしかわからない。

本当は〇〇をしたい。
でも無理だからやらない、という
前提が当たり前になりすぎていて
自分が何を諦めているのかすらわからない。

その〇〇をやる。


レッツ、ワーク



本当は         したい
本当は         したい


これをコピペして
埋めていくんです自分の言葉で。

「本当は好きな歌をうたってみたい」
「本当はセリーヌディオンの
My heart  will go onを歌ってみたい」

なんて、望みが出てきたら
それを少しずつ少しずつやる。  

やって何の意味があるのか?
上手くいくわけないのに?
こんなことやったからって何になるのか?

そういう気持ちが
「自分に蓋をしている」なんです。

そういう心の声が
無邪気な自分の気持ちを押し殺しているんです。

本当はやりたい、っていうことをやる。
それだけ。

それが何になる?
それが本当の自分を出すということです。

その、本当の自分が1mmでも出てきたら
また、ひょっこり出したくなります。

本当は気持ちを込めて歌ってみたい、とか。

で、気持ちを込めて歌えたら
感動しますから。

そしたら、その感動を
もっと味わいたくなりますから。

そうやって、もっと味わいたい
とか
もっと〇〇したい

という欲求、願望を出していくんです。
それが自分を出すということ。

本当の自分を探しに行かなくても
もう、あるから。出せば。

出していく。出せば、出る。
出てきちゃうから。
すんごいんだから、出ちゃったら。
出ちゃうの。

んなもん、出てこない…

では、望みが出なかった人は…です。
本当は〇〇したい、がないという人。

善悪の判断、分別、ジャッジ。

それやってると本音が出ません。
ジャッジしていると正直な気持ち出てきません。

だって正直な気持ち言ったのに
「それは良い。でもそれは悪い、ダメ」

って言われたら

ダメって言われることは
言いたくなくなってくるでしょ。

本音に上手に建前織り交ぜちゃったり。 
日本語ってすごいからね。

本当はセリーヌディオンを歌いたい
っていう願望を言葉にして
発表する機会があったとしますよね

それで、自分で言いながら
んー、やっぱり違うかもって思ったら
クネクネ路線変更できちゃう。

「わたしは、セリーヌディオンを歌い………………ます」

「わたしは、セリーヌディオンを歌い…………………………ません」

なんてね。

英語だったら初っ端で
I don'tって言っちゃってるー、っていうね。

小さいことでいいから

自分のやりたい、っていう気持ちを
ほんのちょっとでいいから出してみてください。

できるだけ大きくないほうがいいかも。
出やすいかも。

あの読みたくて買ったのに
全然読んでいなかった本。

パラパラーっとめくって
なんか、ここだって思ったページを
開いてみる。

ちょっと読んでみる。
それだけでいい。

そのくらい小さいことでいい。

それをやったときに
「こんなちょっと読んだから何なんだよ」
「最初から読まなきゃ意味がわからない」
「馬鹿馬鹿しい、やってみたけど何にも感じなかった」

っていう心の声が聴こえたら
それが本当の自分を蓋している声かも。

意味がないことならば
本当の自分を出す必要がない。

本当に自分がやりたいと
思ったことをやる意味がない。
無駄になる。もっと有益なことをやるべきだ。

しかも、あの本を読むのなら
心構えが必要だから 
今そういう気分じゃないし読めない。

とかね。

そもそも
読みたくて買った本なのにね。 

このあとすぐ、あなたが
あの本を実際に手に取って触れる。

そしてパラパラとめくった本から
目に入ってきた言葉のひとつ。

その言葉。

それが、あなたにとって
心に流れている
川の小石のひとつが
動いていくものになるのかもしれない。

そしてそのエネルギーが
また響いていき、作用していって
大きなものが動いていく。

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