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自由意志の進化

人はどのようにして自由意思を手に入れたのか?
マイケル・トマセロ 行為主体性の進化(白楊社)

人には「自由意思」がある。
「自由意志」といっても難しいものではなく、今日のお昼、何を食べるか?選ぶことだったり、また忙しければ食欲を我慢して仕事を片付け、そのあとでゆっくりご飯を食べるようなことだ。
簡単で日常的な選択だが、目をほかの動物に向けると、なかなか簡単なことではない。
動物ではなかなかこういう行動はできない。目の前にご飯があっても我慢して、仕事(ほかの餌集め?)に専念したり、朝のごはんに、今日は川に行って魚にしようか?とか、山に行って木の実を取ろうか?を、たとえば寝床を出る前に考えているようには見えない。場面に遭遇した時は少しだけ考えることもあるだろうが。
ヒトだけがこういう選択を考えるが、ここには選択する力、自由意志が関係している。
欲望のままに動くのではなく、一旦止まって考えたり、ほかの選択肢を想像して比較することを「自由意志」と言うなら、ヒト以外では、特に哺乳類以外では居ないのである(実は哺乳類ではこういう意志力が大分あるらしい)。
本書はおもに人間だけが持つ、選択する力、自由意思という能力をどのようにして獲得してきたのか?
それを太古のミミズのような動物から、爬虫類、哺乳類、類人猿、そしてヒトという進化の節目を描くことで、論理的に、また実験心理学や動物心理学などのエビデンスを示しつつ解き明かす。

哺乳類は多少自由意志を持つと述べたが、爬虫類ではほぼ自由意志はないらしい。爬虫類は目の獲物に即座に行動し、ほかの選択肢を比較したりする力はないらしい。外敵の存在に気づいて、行動を止める能力はあるらしいが。
また哺乳類以降が持つ能力に、「恐れ」が挙げられている。「恐れ」が能力とは、やや違和感があるが、この爬虫類以下は持たず、哺乳類以降が持つ能力は、意思の進化に大きな影響力がある。
たとえば、リスが木の枝から枝へジャンプする時、時に身を縮めて跳ぼうとするが、躊躇して飛ぶのをやめ、枝を降りてから別の枝に移動することがある。
この判断に「恐れ」が関与していることが示される。脳の恐れを抱いた時に反応する場所が、その瞬間発火するからだ。
「恐れ」を感じるには高度な脳の発達と「フィードバック型能力」が必要らしい。
それは過去の経験をもとに、今この瞬間(枝からジャンプしようと思う瞬間)、結果(地面に落ちるかも?)をシュミレーションするステップであり、能力だからだ。
「恐れ」を抱いた個体が進化上有利となり、淘汰圧を乗り越えて、次世代の能力進化に影響を及ぼした。ヒトになる進化の一つの要素だったらしい。

著者は、「ヒトはなぜ協力するのか」という著書もあり、以前このnoteでも紹介した。その本では、ヒトは互いに協力することで生き延び、ほかの類人猿などとの競争に勝った。ヒトがヒトたるようになった進化上の一番の要因として仲間との協力を、またこれも数々の論証をあげて主張している。

確かにヒトは樹上から降りて二足歩行することで進化したとよく言うが、そうではなく、ライバルに樹上から追われ、危険がいっぱいの草原に降りて、生き延びるために仲間と協力して捕食などの行動をしてきたのが、人類だという主張である。
同じ事実の流れを見た説明だが、進化の様を言うだけでなく、一段深い力学から語っている。
見方が数段深く、また感動的ですらある。
つまりヒトにとって仲間との協力は、進化の決定打だったのである。

ヒトと動物の関係を言う時に、極端な言説が多い。
一つは、ヒトとほかの動物の能力はかけ離れているという見方。そういう人は、極端な話、犬に愛情などなく、犬の行動を、飼い主から見て、愛情あるように語るのは擬人化しすぎであると言ったりする。

逆は、ヒトとほかの動物には能力に違いなく、人間のように思考しているという言い方だが、まぁどちらも極端なのだった。
ただ同じ動物でも哺乳類と爬虫類では、意思の点では今まで述べたように発露のあり方が違うらしい。

我が家の愛犬について言えば、本書で語る普通の哺乳類を超えて、極めて高い意思と愛情力を持っていることは、論を俟たないが。

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