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無言中華

幼き頃の記憶というのは、とても不思議である。
鮮明でなくて、ボヤけているわけでもないのだけれど、なにかうっすらと夢のなかのシーンが脳の一部に浮かび上がるように油染みのようにこびりついている。
そして何故かそのシーンにまとわりつく感情だけは、くっきりと残っているのである。
感情は脳内でなく胸のなかにあり、ときに切なさであったり、恐怖心のような寂しさであったり、ざわざわとする胸騒ぎであったりする。


帝国海軍。
艶の無い真っ黒なアルバムのいちばん最初のページに、白い軍装に身をつつんだ祖父がいる。
鹿児島の山奥にある母家から望む霧島連山。
風呂場の窓に霧島山に連なる高千穂峰が、墨絵に淡い水彩を吹きかけたように浮かんでいた。

僕が幼年の頃の父を思うとき、いつも不充足と屈託が絡み合った糸のように垂れ込めて居、それが人相や風体にも滲み出ている、そんなイメージしかない。
蜃気楼の如く目的地は、歩いても歩いてもたどり着くことができない。
焦りと焦燥がその時の父の全てであったに違いないと思う。


小学校にあがったばかりの春だったと思う。
本革のランドセルが鹿児島の祖父から届いた。
天文館の山形屋から送られてきたランドセルの重厚と皮の匂いは、今も鼻腔の何処かにはっきり残っている。
そんな春のある土曜日、祖母の系統の親類が鹿児島から訪れ(父からすると母方の叔父にあたる)祖父の悪口を父親にこんこんと諭すように語った。
たしかに祖父は高いプライドを持っていた人であり、悪く言えば集落の人達を見下げていたのではないかと察しがつく。

母親が丸いテーブルいっぱいに料理をならべた。
イカの刺身や鯨のベーコン、カキフライに鰻の長焼き。
あろうことか父は、料理に手をつける前にその親類を国鉄名古屋駅まで送り返してしまった。
ニコニコと親類の話を聞いていた矢先のあっという間の出来事なのです。
だしぬけに、父がうわずった声音で「送ります」と言い、親類はそのまますっくという感じで席を立った。
僕は親類の口元に、笑みがうかんでいたのを忘れようがない。
人間はこういう時にはこんな表情になるんだと、その親類の顔色から目が離せなかった。
この鹿児島から訪れた親類がいかほどの滞在であったのか、正確には思い出すことができないのだけれども、子供向けの番組が一本見終わらないくらいであったと思う。

何故か不思議でならないのだけれど、その親類を家族皆で駅裏の新幹線口まで送った。
その帰り道、名古屋競輪場の裏手の小さな中華料理店に寄り、家族の誰も言葉を発することなくただ僕は卵焼きに餡のかかった天津飯を黙々と食べたのです。
中華皿の縁のすりきれた朱色の鳴門柄だけをじっとみつめながら、、レンゲと皿のカチカチと鳴る音にイライラとしながら食べたのです。

そして、家のテーブルにぎっしりと並んだ料理を思い返していた。

僕達一家しかいない店内には、パリパリという店主の新聞をめくる音と、油で曇ったブラウン管に映る野球中継の音声だけが黄色く濁ったセピア色の空中を漂い、その夢とも幻ともつかない異世界が僕の脳や胸のなかにときにぼんやりと、ときにくっきりと輪郭を現すのです。

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