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悟りとは(PNSE、継続的非記号体験)

悟り(PNSE、継続的非記号体験)とは

自身の本質(働き)が明らかになること。以下の様な自覚が現れます。

・悟りや真実についての探求が止む(ハッキリする)
・思考の過程が明らかになり、悩みや不安に捉われなくなる
・モノゴトの良し悪しに拘らなくなる

思考を消せば悟りか

悟り=無我(私がない)というイメージから、悟ることで「私」や思考そのものが消えてしまうかの様に考える人がいます。

そもそも思考とは、生きるための「機能」に過ぎず、「私」という思考する実体はありません。

「私」という思考する実体がある、実体があるものは消せる、という思い込みから、「私」そのものを消そうとしたり、思考が浮かばないようにしようとしたりします。

はじめからその様な実体はない訳ですから、無いものは消せませんし(実在しないと気付くことは出来る)、そもそもの前提が間違っているとも言えます。

また、世界は幻に例えられたりしますが、いま目の前にある世界が偽りで、悟ることで真実の世界が現れる訳でもありません。

いま、まさに目の前にある事実のみが唯一であると自覚することが悟りです。

私≠思考という認識

私(の本質)は私の思考ではない、と気付くことで、(禅や瞑想等において)誤った目標を設定したり、効果のない方法を繰り返すなど、時間を無駄にすることが少なくなります。

「私≠思考」という認識は、自身のこれまでの経験や実感からあまりにかけ離れているため、なかなか受け入れ難いです。

ただ、早い段階からこれに気付き、悩みや不安に苛まれることなく、自身をうまく使えるようになれば、より充実した人生を送ることが出来ると思います。

そもそも思考とは何か

思考の働きを、玉ねぎの皮を剥くように一枚ずつ剥がしていった結果、一番最後に残るものは、●●はあるという認識作用です。

逆に言うと、この認識作用が複雑に絡み合って、あたかも一つの実体のある、実在があるかのように構築された概念が自我です。

「私は●●である」を基本形に、知識や経験が増えるにつれて、より複雑な意味付けがなされるようになります。

※私は幸せ(不幸)である、私は成功者(失敗者)である、私は金持ち(貧乏)である等々

その結果、ますます複雑な概念が構築され、本来の私(の働き)というものが分からなくなってゆきます。

悟ればもう元には戻らないか

例えば下の画像を見て、何が映っているか分かるでしょうか(スクロールし過ぎると答えが見えちゃいます)?

ただの白黒のシミのようなパターンにしか見えないと思います。

画像1

次に下にある画像を見て下さい。

その後、元の白黒の画像を見てみると、答えを知る前と、知った後では、見え方が異なっていると思います。

画像2

知る前と、知った後では、モノゴトの見方、見え方が大きく異なってきます。

「これがそうかな?」という思いは、答えを知った(確証した)訳ではありません。

確信に近づいた感覚があっても、結局は時間が経つにつれて段々と自信がなくなり、納得感も次第に薄まり、不安な思いや悩みが再び頭を擡げてきたりします。

結局は自身が一番よく分かることなので、人に確認してもらいたい気持ちであったり、少しでも疑念がある場合、少し時間が経てばまた、元の迷いの状態に戻ってしまいます。

ただ、それでも以前より確実に進んでいるのであり、何れある一線(閾値)を超えれば、分かります。

一発で飛び越してしまう人もいれば、徐々に深まっていく人と、いろいろあると思います。

※ちなみに上の例では「分別して」赤ちゃんが見える様になるので、このnoteのテーマとは真逆のことを言っている訳ですが。

悟りに段階はあるか

上で言う一発で飛び越えてしまう人にとっては、段階はないと感じられるでしょう。

ただ、意外とそうした人であっても、「実は単なる一瞥体験であった」というケースは良くあると思います。

しばしば、「悟後の修行」が大事と言われますが、後者(徐々に深まる人)にとってのそれが大事であることはもちろん、前者(何かしらのきっかけで一気に進む人)にとっても、それは当て嵌まると思います。

良く禅などで、自身で判断せず、きちんとした師家に確認するよう言われるのには、そうした背景もあるからだと思います。

悟りの段階とはどの様なものか

初期仏教でいう四向四果、大乗仏教でいう十地(仏地)、十牛図(最近ではFundamental Wellbeingでいうロケーション(1~5+))など様々あります。

「見性」、「悟り」など、同じ言葉でも、宗派や人によって使われ方が異なるケースも多いです。

何れも、その過程を異なるアプローチやモノサシで、便宜上区切っているだけで、言っていることはそれぞれ大差ありません。

悟りが主観的な経験であること、その段階を「推しはかる」方法や表現が、その目的や手段に応じて様々あること、悟っていない人から見たらその実態がわかりづらいことなどが、コトを尚更に複雑にしています。

もう戻らなくなる一線(閾値)とは何か

何かしらの突発的なきっかけで、不思議な経験(神秘体験)をすることがあります。

では、それがあれば悟りかと言えばそうではなく、上記はあくまでただの経験(体験)です。

経験(体験)する主体が残っているうちはダメだと良く(?)言われますが、所謂「一瞥体験」などがそれに当て嵌まります。

何かのきっかけで、ある一定期間にわたって、自我の殻が、消えてしまった様な、自他の区別がなくなった様な、それによって全体との一体感を感じる様な、経験をすることがあります。

ただ、それを分かっている自体で、「私(自我=思考)」が残ってしまっています(一時消えてしまったかの様に感じても)。

なぜ、それが分かってしまっているかと言うと、はじめから「ない」ものを「ある」と思い込んでしまっているからです。

上でも述べましたが、そもそも「ない」ものは「消せません」。

消せたと思っている時点で、それは「思考」です。

自我がなくなった、消えてしまった、自他の区別がなくなった、全体(宇宙)と一つになった等々を、「分っている」のは「思考」です。

そもそもそれすら無い(無いというのも思考ですが便宜上使わざるを得ないので)、「無いということも無い」状態に留まっていられるかが違います。

非二元(ノンデュアリティ)は仏教の劣化版コピーか

西洋を経由し、逆輸入の様な形で日本に入ってきたこともあり、仏教こそがオリジナル、仏教の方が優れている、という意見をたまに見かけます。

「悟りの段階」でも述べたように、基本的にモノゴトには様々な見方や考え方が可能であり、そもそもその様な区分には意味がない、と考えています。

〰の方が優れた教えだ、〰の方がよく分かったいる(正しい)という、考え方自体が「分別」であり、「思考の働き」でもあります。

なので、このnoteでは何か特定の立場を取ったり、考え方を推奨したりするものではありません。

最後に

このnoteやマガジンで体系的にまとめていきたいと思っているけど、なかなか進まないので辛抱強くお付き合い頂けると嬉しいです。

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