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同化と調節

メモ。
同化と調節。

まずは臨床心理学中事典「同化と調節(assimilation & accommodation)」より引用する。

定義
同化とは、新しい対象や情報について、自分に合うような形で、その人がすでに持っているシェマ(情報や経験などを処理する心の中にある認知構造)に取り込んでいくことを指す。その対象や情報が既存のシェマとうまく一致しない場合、その対象や情報に合わせて自分のシェマの方を修正する。この働きが調節である。

野島一彦監修「臨床心理学中事典」遠見書房、2022年

概要
生体と環境の相互作用において、生体は外界の対象や事象を自分の持つ構造に取り込むことができる場合もあれば、その対象や事象に応じて自らの構造の修正や変更を求められる場合もある。こうしたことは生理学的なレベルでも生じるが、Piaget は心理学的なレベルに適用し、子どもの認知発達を説明した。初めての対象や情報に接するとき、人は自分の持つさまざまなシェマを当てはめようとする。しかし、自分がすでに持っているシェマでは当てはめることができない場合があれば、新たなシェマをつくるかすでに持っているシェマを変更させる必要性が生じる。同化と調節は正反対の働きであるが、対象や事象を認知していく上では同化のみ、もしくは、調節のみ働かせているということはない。実際的な認知のプロセスにおいては両者を切り離すことは不可能であり、相補的に働いている。同化と調節が相補的に働くことによって、人のシェマは環境との相互作用の中で均衡を維持しようとしながら環境により適応していく。

野島一彦監修「臨床心理学中事典」遠見書房、2022年

以上。

繰り返し、拙い要約を。

私たちは他者や対象からもたらされる情報を、情報や経験などを処理する心の中にある認知構造に取り込んでいく。これを同化と呼ぶ。うまく一致しないときは、認知構造を修正する。これを調節と呼ぶ。

同化と調節は相補的に働く。
どちらかに偏るとき、私たちは認知構造と現実の他者や対象との間にギャップが生じたまま対応できずに苦慮することになる。

さて、この次だ。

他者や対象からもたされる情報は、私たちに刺激を与える。
その刺激に対応する形で防衛機制が働く。
こちらも臨床心理学中事典より「防衛機制(defense mechanisms)」から定義のみ引用を。

定義
防衛機制とは、個人にとって脅威となるような心の痛みや葛藤をもたらす不安・衝動・欲求・感情・観念・体験などを回避し、自尊心を維持するために働く、自我による無意識の心的処理過程である。内界の安定を護りながら外界への適応を図る時が昨日であり、分裂を基礎にした原始的(一次的/低次)なものから抑圧を基礎にした神経症的(二次的/高次)なものまでさまざまな種類がある。

野島一彦監修「臨床心理学中事典」遠見書房、2022年

以上。
その定義はフロイトの子どもであるアンナの文献「自我と防衛」が、まず参考書籍としてあがるのではないか。

刺激に対応する心的動作は防衛機制にかぎらないし、防衛機制には一次的・二次的なものそれぞれに、実にいくつもの動作が存在する。

私たちは日々、なにげなく同化と調節を試みている。
ただし、そのなにげない試みが常にうまく作動するとはかぎらない。

たとえば、こういうケースはどうか。
自分が一見して安定していると感じる状態にあっても、自分は同化に偏り、周囲に調節を求めすぎている状態がある。

水戸黄門など時代劇の悪役、ドラマ版の半沢直樹の悪党などは、自分の認知構造は変えたがらず、現実とのギャップによって自分の思いどおりにならぬ者には、立場から、その権威から、相手が調節しなければならないよう抑圧して、加害行動を加え続ける。

俺はこう思う。お前もそうだよな? と首元に刃を当てる。僻地送りの辞令をちらつかせる。暴力を振るう悪党で取り囲む。金銭や職、家屋や居場所を破壊する脅しをかけるのである。

では、このような行動を選ぶ者が、対象との間に防衛機制が働いていないと言えるだろうか?

時代劇においては主人公が仲間たちと共に仕置きを敢行する。
半沢直樹においては倍返しが行われる。
ハリウッド映画のアクションもの、陰謀ものや仕事上の確執を描いたもの、あるいは韓国ノワールにおける対決においても、互いの目的と行動によって状況の綱引きを行う。

そのたびに認知構造は揺さぶられる。
現実は絶えず変化して、そこから生じる実状から私たちは心が痛み、不安などに苛まれる。
そして防衛機制が働く。

こうした話は、なにもアクション映画にかぎらない。
恋愛作品においてはありふれたものだし、恋愛は人間の関係性のごく一部に過ぎない。
人と人とが関わるうえで生じる、あらゆる関係性において生じるものなのである。
そのとき作動するのは、いくつもある防衛機制だけではないのだ。

あらゆる動作が重なり、組み合わさり、いくつもの動作が、その比率をそれぞれ異にしたまま表象されるのである。
そして表象されるものが、内面化された動作から、どの程度あらわれるのかは、そのときによってまちまちなのだ。

そのため、いくつか情報を並べてみせたものの、同化と調節、防衛機制があるというだけの認識では不十分すぎる。
人の心の一端さえ思い描くには絶望的なほどに足りない。

そう前置きしたうえで、自問する。

同化優位になっていないか。調節優位になっていないか。
所属する集団・組織に同化する、好ましいと思った相手に同化する。そうでないものには調節ばかりを求めて、同化も調節も行わないといった状態に陥ってはいないか。

フロムの語る「愛するということ」、だれもが育むことのできる愛する能力は配慮・尊重・責任・知に根ざしていて、人生・幸福・成長・自由を肯定することに向けられる。
同化と調節、防衛機制をはじめ、今回記述していないあらゆる心の動作は、愛する能力に資する方向へと利用できているだろうか?
それとも未熟な初心者として、赤子のように、子どものように助けを求めている状態になっているか。
なっていたとして、そのときの感情や不足を自分や他者を責めるために活用してはいないか。
そうではなく、いかに自分を育てようか意識しているか。そのために必要なものを頼り、愛する能力を前提にしたうえで、広く分散する形で依存をいくつも繋げられているだろうか?
援助希求能力を行使できているだろうか?

私たちはひとりで生きているのではない。
どれほど強くなろうと、ひとりで生きていけるものではない。
社会の存在が、ありようが、それを否定する。

そのとき、私たちはどのように同化と調節を行うのか。
どのような防衛機制が働いているだろう。
その他、到底書き切れないほどの心の動作が潜んでいるとして、それに気づくにはどうすれば?

他者や世界と交流することで生じる刺激こそ、私たちの映し鏡だ。
同化と調節は、つまるところ鏡に映った自分の刺激、刺激から生じる感情を知らせとして、いかに自分と付き合うのかという問いに対する具体的な答えとして行われる行為なのだろう。
受動的に行われるものばかりではあるまい。
いかに能動的に行うのか。

成功ばかりではないだろう。
失敗するとして、それはなにもいま、これからにかぎらない。
二度とふり返りたくない、思い出したくないような過去の失敗も、やまほど気づけるようになるのだろう。
年を重ねて自分を育てるほどに。
それさえ、自分に問いかける。
フランクルの夜と霧のフレーズのように。
どう生きるのか。具体的な行動をもって、私たちは生きながら、常に答えている。
完璧かつ満点を取り続ける選択しかしない、そんな回答だけで渡りきるなどあり得ない。
私たちはたびたび失敗する。

「あなたはこのくらいでいい」「こんなもんだろ」と明らかに残念な回答が透けて見える対応をされることもしばしばある。
それに基準も価値観も、なにを学び、なにをどう感じるのかも、その日の体調から状態に至るまで、だれもがみな異なる。
同じであることなどあり得ない。
集団において、ひとつの価値観を正とすることなどできない。
また、それはとても危うい振る舞いだ。
そのために噛みあわないことは、むしろ自然なことだ。
それゆえにままならない、思わぬダメージを負うこともまた避けられない。そして、思わぬダメージを与えること、ままならない思いをさせてしまうこともまた、避けがたい。

だからといって、この避けがたい現実のなかで起きる出来事が、あまりにも理不尽で到底受け入れがたいときもある。
なくすことはできない。

限界がある。
できないことがある。
どうにもならないこともある。

他者は変えられない。
他者が集まる集団も同じだ。
変えられるものではない。
だからこそ、私たちは協力し、協働する。
しかし、変えられることができない以上、強制することはできない。また、するべきでもないだろう。
本人の意欲と希望に委ねる。
それには愛する能力が欲しい。

だれもが育むことのできる愛する能力は配慮・尊重・責任・知に根ざしていて、人生・幸福・成長・自由を肯定することに向けられる。
ともに、お互い自分だけでも、相手だけでもない、お互いが育める認知構造を第三の領域ないし境界線に築く。
それには愛する能力が欲しい。
同化と調整は、自分を愛してこそ、他者を慈しんでこそ、安定して行えるものなのではないだろうか。

よい一日を!