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淡々と生きるための、揺るぎなさ イム・スルレ【前編】/『あなたが輝いていた時』

圧倒的に輝く不滅の光ではなく、短く、小さく、何度も点灯する光の一つひとつが人々に希望をもたらし社会を変えていく――。そう信じてやまない財団法人「ワグル」理事長のイ・ジンスンさんが書いた『あなたが輝いていた時』(文学トンネ)は、彼女が6年間にわたって122人にインタビューし、ハンギョレ新聞で連載した記事の中から、12人分を収録したものです。同人誌『中くらいの友だち』を主宰し、韓国の社会事情にも詳しいライター・翻訳家の伊東順子さんの翻訳でお届けします。

今回のインタビューは起伏がなく淡々としている。炭酸飲料のような刺激的な味わいも、唐辛子のような激辛の一打もない。熾烈な争いが火花を散らす世の中で、熱すぎず、冷たすぎず、甘くも、酸っぱくもない、微温の心地よさはむしろ貴重かもしれない。生き馬の目を抜くような日々、尖った言葉の応酬に疲れ切った時に、まるで温かな重湯がしみわたるように身体の内側から癒やしてくれる人に出会った。ソウル市聖水洞ソンスドンのオフィスの前でその人が、にっこりと微笑みを浮かべた顔でゆっくり車から降りてきた時、私には初対面という感じがしなかった。ボサボサのショートカット、だぶだぶの黒いジャケットに黒い運動靴を履いたイム・スルレ監督は、ずっと前から知っている隣のお姉さんのように親しみやすい人だった。

イム・スルレは芸術的完成度と商業的成功の両面で評価される、大韓民国を代表する映画監督の一人だ。1994年、デビュー作『雨中散策』でソウル短編映画祭の最優秀作品賞に輝き、2002年に『ワイキキ・ブラザース』で百想芸術大賞の作品賞を、2008年に『私たちの生涯最高の瞬間』で青龍映画賞最優秀作品賞を受賞した。2009年から現在まで、動物の権利団体である「KARA(Korea Animal Rights Advocates)」の代表として韓国ではマイナーな「動物の権利を守る運動」を広めようとする熱烈な活動家でもある。
巨大資本と華やかなスターダムが支配する映画の世界にあっても、激しい市民運動の渦中にあろうとも、イム監督は常に純朴な村人風情だ。その重厚で落ち着いた態度はどうして可能なのだろうか。世俗にありながら名声にとらわれず、自然にありながら世事を無視しない、その一貫した姿勢は驚くべきものだ。
4時間にわたるインタビューの間、イム監督は高くも低くもない声で、淡々と自身の人生と映画と生命について語り、その語調は私の心拍の動きをもゆるやかにしていくかのようだった。彼女の周波数に寄り添いながら、しばしすべての悩みから解き放たれたような、ひっそりとした静かな時間だった。

お宅は楊平ヤンピョンですよね? ソウルにはよく出てこられるんですか?
――2005年から楊平で暮らしているんですが、初めの頃は1週間に2~3日だけソウルに来ればいいと思っていました。その頃までは映画制作の間隔が長かったんです。『三人の友達』から『ワイキキ・ブラザース』まで4年かかり、『ワイキキ・ブラザース』から『私たちの生涯最高の瞬間』まで8年かかりましたから。ところが『私たちの生涯最高の瞬間』が大ヒットしてからは、それ以前より頻繁に映画を作ることになり、また2009年にKARAを引き受けることになってからは、ソウルに出てくることが一気に増えました。最近は、平日はほぼ毎日、週末も出てくることが結構あります。

最近、『リトル・フォレスト』(邦題『リトル・フォレスト 春夏秋冬』)の撮影を終えたそうですね。
――今は編集作業をしています。春の公開です。

原作は日本のものだそうですが、どんな映画ですか?
――原作は日本の漫画なのですが、ある若い女性が田舎に移住して、近所で収穫される四季折々の作物を料理して食べるという物語です。そうしながら少しずつ村の一員になっていく。漫画としてはそれほどヒットしたわけでもないのですが、それをもとにした映画が日本で製作されました。二つの季節ごとにまとめて1話、2話と封切られ、2015年に韓国でも紹介されたんです。

映画『リトル・フォレスト 春夏秋冬』公式ホームページより。
真ん中の写真の右がイム・スルレ監督。

その映画をご覧になったのですか?
――私が監督した『提報者 ES細胞捏造事件』(2014)という映画の製作者が、個人的につらかった時期に偶然その映画を見てものすごく癒やされたと、私に監督の話を持ちかけてきたんです。楊平に住んでいるから、そんな自然主義者の田舎暮らしをよく知っているだろうと。
実際、最近は刺激的な映画が多いじゃないですか。なにかを壊したり殴ったり殺したり……。だから私も人々にとってささやかな生きる喜びとか、ヒーリングになるような小さな作品を撮ってみたいという気持ちがあったのです。映画には四季がすべて必要なので、昨年の冬からこの秋まで、撮影だけでしっかり1年かかりました。映画の企画から封切りまで年数にして約3年、長期プロジェクトですよね。

大作ですね(笑)
――すごいでしょ(笑)。


韓国映画『リトル・フォレスト 春夏秋冬』予告編

四季をすべて網羅することが、この映画の重要なフォーマットのようですが、実際のところ都市に住む人々は季節の変化もよくわかってなくて、朝起きて寒ければコートを着るし、暑ければ脱ぐ。そんな程度です。監督のように田舎で暮せば、四季の変化というものが本当に体感できるのでしょうか?
――もちろんです。身体で感じますよ。「節気」が実に絶妙であることも、田舎で暮せばわかります。庭に芝生があるのですが、雑草が「抜いて抜いてもまた生えてくる」、昔から言われる言葉のとおりです。昨日抜いたのに、寝て起きたらまたこのくらい生えてきて。でも不思議なことに、「処暑」をすぎると草はあまり生えてこないんです。処暑、霜降、雨水、啓蟄、夏至、冬至、そういった節気は農業をするのにどれほど絶妙なタイミングか、本当に不思議ですよ。

家庭菜園などもされるんですか?
――ずっとやっていますよ。ちゃんとした農業というわけではなく見よう見まねですから、農家の方が見たらお笑いでしょうが(笑)。サンチュ、唐辛子、ミニトマト、きゅうり、ナス、ズッキーニ……秋にはキムジャン*¹用の白菜も植えますよ。

*¹ 初冬に大量のキムチを漬けること。韓国の年中行事の一つ。

その白菜でキムジャンもされるんですか?
――引っこ抜いて本家に持っていって、キムチをもらってきます(笑)。

原料を供給して、完成品をもらってくるんですね(笑)
――キムジャン用の白菜は8月末か9月のはじめに植えなければいけないのですが、ちょうどその時に仕事が忙しくて、ちょっと遅れて植えたら失敗しました。ちゃんと育たずに凍ってしまったんです。

私も少しだけ週末菜園をしてみたのですが、1週間遅れで植えれば1週間遅れで収穫できるというものじゃないんですよね(笑)。日に日に痩せていって枯れてしまいました。農業は約束を遅らせてはいけないのだと思いました。
――そうなんです。だから農業をする皆さんは融通がきかないぐらい、きっちり節気にあわせて仕事をするんです。そうするしかないから。農村で暮すと、身体のリズムに変化が生じます。田舎に引っ越してからは、どれだけ遅く寝ても、朝早く起きてしまうんです。

映画をされる方は、普通は夜遅くまで仕事をして、起きるのも遅いんじゃないですか?
――そうです。夜行性ですよね。朝、私がメッセージのやりとりをできるのは、みんなお坊さんです。朝の5時や6時からカトック*²を送ってくる人たちは(笑)。

*² SNSのメッセージ。

楊平とソウルを行き来する生活は大変だが、再びソウルに戻る考えはない。昨年は蜂に刺されてアナフィラキシーを起こし、呼吸困難で死ぬ寸前になったのだが、それでも気持ちは変わらなかった。そのかわりに彼女の「ファッション」に変化が生じた。蜂は黒い色を見ると野生動物だと思って攻撃する性質があるというのを聞いて、庭仕事をする時はトレードマークである黒い服の代わりに明るい色の服を着るのだという。イム・スルレは自然の色と匂いを自分に一枚一枚重ねていく。

|愚かだが愛すべき、敗残者たちの記憶

イム・スルレ作品はもれなく好きなのですが、この間のフィルムグラフィーを見ると、監督の映画的個性を一言で定義するのは難しいという思いにかられます。『三人の友達』『ワイキキ・ブラザース』のようなマイナーなアウトサイダーたちの話があるかと思えば、『牛とともに旅をする方法』『リトル・フォレスト』のような自然に親和的で観察的な作品もあり、『私たちの生涯最高の瞬間』のようなエンタメ性の高い熱血ヒューマンストーリーとか、『提報者 ES細胞捏造事件』のような社会性の高い告発映画もあります。
ジャンルや素材はバラエティに富んでいるのですが、それらに共通するイム・スルレ作品の特徴があるとすれば、どんなものでしょう?
――うーん、それは映画評論家がするべき話のような(笑)。基本的に私は社会的弱者やマイナーな情緒に関心があり、動物とか自然親和的なものが好きで、人間の群像を善悪の構図で典型化するのはあまり好きではないですね。社会正義について関心はありますが、刀で切るようにこの人は悪い人、この人はいい人、そんなふうに分けたくはないです。

『提報者 ES細胞捏造事件』でファン・ウソク*³をモデルにしたイ・ジャンハン博士が典型的な悪人として描かれていないのも、そんな脈絡ですよね。
「あまりにも遠くに来てしまって、止まることができなかった」という台詞が共感と憐憫を誘いました。悪人というよりも、愚かさと勇気のなさによって自ら破滅を招いた、哀れな人に見えました。
――彼も誰かにとっては優しいお父さんであり友だちであるかもしれません。憎しみだけに囚われるよりも、人間を多面的に見ることが大切だと思うんです。

 *³ 韓国で「もっともノーベル賞に近い科学者」と言われた獣医学者だったが、ES細胞をはじめとする多くの論文は捏造であり、韓国社会に大きな衝撃を与えた。

韓国映画『提報者~ES細胞捏造事件~』予告編 

監督の略歴を見ると、漢陽ハニャン大学英文科卒業後、パリ第8大学で映画学修士を取得と、申し分のない華麗な経歴でいらっしゃるのですが、作品は社会的弱者に対する愛情と憐憫が色濃いものになっています。何か特別な理由がありますか?
――二つだと思います。私の育った環境と仏教。子どもの頃は仁川インチョンのはずれにある、ほとんど農村にみたいな集落で暮らしていました。仁川の地元民ではなく、お金を稼ごうとして仁川に出てきた忠清道チュンチョンド全羅道チョルラド慶尚道キョンサンドの人々が集まって暮らす、ものすごく貧しい町でした。私の父は富平プピョンの米軍基地で働く労務者で、近所の人たちもほとんどがそんな土木関係の日雇い労働者で、みんな似たりよったりの暮らしでした。父親たちはいつもお酒を飲んでは暴力をふるい、母親と子どもたちはそれに怯えて。でもそんな貧しい人同士が集まって暮らしていたから、人情味もあったんです。私は2歳ずつ離れた5人兄妹の末っ子で、うちに間借りしていた家族もまた2歳違いの5人兄妹でした。うちと1歳ずつずれていて(笑)。

では、ひとつ屋根の下に1歳違いの子どもが10人?
――はい。うちはカトリック信者の家系でした。5代前のおじいさんの時にカトリックへの迫害から逃れて、保寧ポリョンから瑞山ソサン海美ヘミに逃げ隠れたほど信仰の厚い家柄で、シスターや神父も多いんです。私も中学校まではカトリック教会に通っていたのですが、ある程度の年齢になってからは仏教的な世界観に惹かれていきました。存在と存在の間に差別はなく、偉くても偉くなくても、人間も動物も差別なくつながっているという言葉が印象的でした。私が映画で平凡な群像に注目するのは、そんな仏教的な世界観と関係しているのではないかと思っています。

貧困地区の出身でも、自分の社会的地位が上がれば、貧困から抜け出せない人々を軽蔑したり、見下したりすることも少なくないですよ。
――私は大きな成功を手にしたことはありませんが、もし大きな成功をしたとしても、そういうことには鈍感な性格なので……成功とか挫折に一喜一憂することはありません。とくに田舎の、自然の中で暮したからそうなのか、世俗的な浮き沈みにはあまり影響を受けない方です。

不遇な環境で劣等感に苛まれて育った人ほど、社会的な承認欲求が強かったり、つい見栄を張ったりしがちなのに、その大きな自尊心はどこから生まれたのでしょうか?
――私が生まれつき鈍いからじゃないですか(笑)。うまくいっても水泡のようなものだし、うまくいかなくても悪いことばかりじゃないでしょう。まさに良し悪しというか、悪いことだって教訓になります。ものごとにはすべて二面性がありますから。

後編に続く

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著者:イ・ジンスン
1982年ソウル大学社会学科入学。1985年に初の総女学生会長に選ばれる。20代は学生運動と労働運動の日々を過ごし、30代になってから放送作家として<MBCドラマスペシャル><やっと語ることができる>等の番組を担当した。40歳で米国のラトガーズ大学に留学。「インターネットをベースにした市民運動研究」で博士号を取得後、オールド・ドミニオン大学助教授。市民ジャーナリズムについて講義をする。2013年に帰国して希望製作所副所長。2015年8月からは市民参与政治と青年活動家養成を目的とした活動を開始し、財団法人ワグルを創立。2013年から6年間、ハンギョレ新聞土曜版にコラムを連載し、122人にインタビューした。どうすれは人々の水平的なネットワークで垂直な権力を制御できるか、どうすれば平凡な人々の温もりで凍りついた世の中を生き返らせることができるのか、その答えを探している。

訳者:伊東順子
ライター、編集・翻訳業。愛知県生まれ。1990年に渡韓。ソウルで企画・翻訳オフィスJPアートプラン運営中。2017年に同人雑誌『中くらいの友だち――韓くに手帖』(皓星社)を創刊。近著には『韓国 現地からの報告――セウォル号事件から文在寅政権まで』(ちくま新書)、『韓国カルチャー 隣人の素顔と現在』(集英社新書)、訳書に『搾取都市、ソウル 韓国最底辺住宅街の人びと』(筑摩書房)等がある。

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