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傷つく勇気

これがnote初投稿となるのだが、一体何から書こうかと思った時に「#子どもに教えられたこと」という題材が目についた。

私は独身で未婚。離婚歴も無ければ、出産歴も無い。

心も体も女性として生まれたが、まだいわゆる「女性の幸せ」と一般的に呼ばれているものには巡り合えていない。

「女性の幸せ」なんて言葉を使っただけで「時代錯誤だ!」と誰かに怒られてしまいそうだが、私自身はあまりそういうことについて腫れものを触るような立場をとっていない。とはいえ、何かにつけ「女性」だの「男性」だのという時代は、そろそろ変わりつつあることを前向きにとらえていることは書き添えておこう。

前書きはさておき。

子どもを産んでいない私が、子どもに教えられたこと・・・。

甥や姪もいない私と子どもの接点といえば、友人の子どもがまずは浮かんだが、何か具体的に印象的な事を教わったかどうか、すぐに思いつかなかった。

でも、一人だけいた。

それは友人や知人の子どもではなかった。

今はもう記憶の片隅にある、20年前にブラジルに住んでいた時に出会った女の子だ。

私は10代の多感な時期を1年間ブラジルで過ごした。交換留学でたった1人、家族とも離れ、右も左もわからない国に飛び込んだ経験がある。

人生で最高の一年。

この話は、また後々少しずつ出てくると思うが、その時に一つ印象的な出来事があり、その主人公がその女の子なのだ。

正直20年も前の話で、前後の事はあまり覚えていない。ただ、彼女のあまりに衝撃的な一言を、私は一生忘れることはできないだろう。

ホストファミリーの家に遊びに来ていた人の子どもだったと思う。年の頃は4~5歳くらいだったろうか。ヨーロッパ系の白人の子で、とにかく目がパッチリ大きく、顔の半分が目なんじゃないか?というくらいだった。絵に描いたような可愛い女の子だった。

その時の私はすでにポルトガル語も理解できるようになっていて、会話には大して不自由していなかった頃だと思う。

テーブルを囲み、私の右隣に彼女は座っていて、彼女の右隣には彼女のお母さんが座っていた。

彼女はジッと私の顔を見ていた。観察していた。

彼女にとっては初めての東洋人だったのかもしれない。自分や自分の周りにいる人とは明らかに違う人種、人間としての姿に、驚きと興味を感じていたに違いない。

顔の半分もあろうか大きな瞳で私を微動だにせず観察している彼女を横目に、私はずっと黙っていた。黙って彼女の様子を逆に観察していた。

真っ白な肌に、栗毛の優しい天然パーマを風にたなびかせ、見れば見るほど可愛いく美しい彼女を「この子はどんなに美しい大人になるのだろうか」と、おとぎ話に出てくるお姫様を愛でるような気持ちで彼女を見つめていた。

すると彼女がお母さんにこう言った。


「ねぇ、お母さん、この人の目は何でこんなに小さいの?」

・・・・・


私は自分の耳を疑った。彼女は今なんて言った?目が小さい?確かに、彼女の目はとても大きいので、それに比べると私の目は小さく見えるだろう。

日本人女性にとって「目が小さい」という事実は、多かれ少なかれ心に動揺をもたらす。特に当時は「アイプチ」なんてものが流行り、二重で大きな目が美しさの象徴になっていて、若者のプチ整形なんかが社会問題的に取りざたされていた。当時、多感な青春時代真っ盛りの人物にとって、その言葉は事実である事以上に、何か心にグサッと刺さるものがあった。

しかし、次に出てきた彼女の言葉が私に止めを刺した。


「ねぇ、この人、目は見えてるの?」

・・・・・・


純粋で悪意のない子どもの言葉には、嘘がない。ど真ん中ストレートだ。

これには参った。


敢えてずっとしゃべらず黙っていたのに、もう言葉を発したくても発せなくなった。

彼女の母親は慌てて「何言っているの、もちろんちゃんと見えているわよ」と言って、バツが悪そうに私に苦笑いしてきた。

この出来事について、私はその後深く考察したことを覚えている。覚えているいくつかをあげるとすれば


①自分の目は、ある人から見れば「見えていないのではないか」と思われるほど小さい。世界水準では小さい方に分類される。(日本では比較的目が大きいほうだと思って生きてきたのだが。)

②それまで自分の容姿についてはさほど気にしていないと思い込んでいたが、その言葉に傷ついたことで、自分がどれだけ自分の容姿を気にしていたのかに気づいた。

③目が小さい=美しくない なんてことはなく、アジアンビューティーといえば、真っ黒なロングのストレートに細い切れ長の目だし!と自分は信じていると思い込んでいた自分。結局目が小さい=美しくない という概念に自分が囚われていたことを知った。

④日本国内定説の一定の美の基準というものがあるとすれば(例えば、目が大きい、細身、肌がきれい、足が長い・・・etc.)世界には身体的に美しい人(生まれ持った資質として)はウン万人といて、自分はその人たちには到底敵わない、ということ。(もちろん努力や整形手術で後天的に補えることはあるだろう)

⑤悪意の無い純粋さは、時に、知らず知らずのうちに人を傷つけているということ。そして、その場合は、受け手がどう受け止められる器量があるかが問われているということ。


最近こそ、「美」という基準についての解釈や定義が変化しつつあるものの、やはりどこかに「基準」を設けたがる風潮は否めない気がするのは私だけだろうか。

そもそも「美しさ」とはなんなんだろうか。

正直、第三者が批評するような「美しさ」は、すでに「美しさ」という概念から少し外れ、結局その第三者がその対象を「好きか嫌いか」「好みか好みじゃないか」「理解できるか、できないか」ということに、最終的には帰結するような気がしてきている。

そしてもう一つ、悪意の無い純粋な発言や行動によって受け手が傷つく場合、これは発信者が悪意がない時点で、受け手がどう受け止めるかがとても大切だ、ということ。もちろん、発信者も何かしらのフィードバックを受けて自身の発言や時に行動を見つめなおすことも必要だと思うが、そもそもコミュニケーションとは双方あって成り立つことであるの、受け手の受け方についても、工夫や訓練は大いに必要であると私は思っている。

よく小学校なんかで、悪意なくクラスメイトが「〇〇君って、太ってるよね」なんて言って、言われた子が傷つき、それが問題になるなんてことがある。これ、発言者が本当に100%悪いのだろうか?最近の風潮では「相手の容姿について、言葉にして言ってはいけない」となっていると思うし、確かに間違ってはいないと思うが、何か違和感を覚える。いや、本当にそれだけでいいのだろうか。むしろ、その「太っている」と言われた子が傷ついたとして、なぜ傷ついたのか。そういう自分にとって受け入れ難い言葉をどう受け止めればいいのか、そういう時どんな反応をすればよいのか。もし「太っている」事をコンプレックスに思っているのならば、どうしたら自分の理想とする体型にすることができるのか、どうしたらその努力を続けられるのか、等をアドバイスすることも大切なのではないだろうか。

話をするということ、議論をするということは「意見を言う」事と「相手の言葉を受け止める」技術の両方が必要だという事。(すべてを受け入れる必要はない)そして、その「相手の言葉を受け止める」技術こそ、まず一番に養われるべき術であると私は思う。

でも、この術は一体誰がいつ教えてくれるのか。私はこれまで生きてきた中で、こういうことをちゃんと教えてくれる人はおらず、大分大人になってきた今日も、試行錯誤の毎日が続いている。

傷つく事や身に感じる痛みを経験して、ようやく人は自分の行動について、相手を通して考え、選択する事を知ると、私自身は思っている。


母親の苦笑の後、私は笑いながら目じりを人差し指で伸ばしてさらに細め、「日本人の目はこんなに小さいけど、見えてるんだよ~」とお道化て笑ってみせた。彼女も笑ってキャッキャキャッキャと喜んだ。


彼女が笑う度に、グサッと心に刺さったナイフがどんどん深くまでいくのが分かった。


でも、ただ素直に疑問を口にした彼女を、純粋に笑っている彼女を

あぁ、やっぱり美しい子だな、と私は思った。

#子どもに教えられたこと

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