葉桜
街から離れた丘の上の精神科病院にかかっている。
2年と3か月前まで何度も入院していた病院。
病院の前には公園があって、公園の真ん中に1本の木が佇んでいる。
毎年春になるとその木は私たちの心を癒す枝垂れ桜に彩られる。
OT室の窓際の椅子に腰掛けて眺めていた。
枝垂れ桜を見ているようで遠く離れた外の世界を見ていたのかもしれない。
枝垂れ桜のおかげで、触れるのが怖い外の世界に意識を向けられたのかもしれない。
入学式や入社式のニュース、お花見のニュース、見てられなかったし、こっちにこないでほしいと思っていた。
退院したいという言葉は嘘。ほんとはもうずっとここにいたかった。ここから出ていくのはとても怖いことと思っていた。
○
2024年の今日、その木はもう緑に色づきだしていた。
私の時間は病院の前に一本で佇む枝垂れ桜を見ることなく過ぎていった。
世の中の時だけ進んでいくものと、あの時あの場所で三人称の世界を枝垂れ桜越しに見ていた。
今日その木は私に教えてくれた。一人称のこの私の時も有無を言わず進んでいくのだと。
〇
病院にいた日の私は、今の私を見て何を思うだろうか。
私に嫌悪感を抱くかもしれない。三人称の世界に行った自分をばかだと思う、うんざりすると思うだろう。
あの頃、夢や希望なんてものはもういっぱいいっぱいで見るのも聞くのも鬱陶しかったように思う。
表面的に、私を見るときっとそう思う。表面的にしか見れなかったなと思う。いろんなことを。
○
今日の私はあの頃の自分に、
病気になって良かった、あの頃の入院経験が今活きているとはまだ思わない。この先も思わないかもしれない。
でも、今日の私があるのには、あの頃の自分が必要だった。
確実にそれだけは確実。
あの頃の抱いた虚しさや孤独、不安や体験した世界、見聞きしたことそれら全部が今の私に蓄積されている。
あの頃よりももう少し多角的にいろんなことを見れているはず。それはあの頃の自分がその世の中を生きていたから。
16歳の私より17歳の私
17歳の私より18歳の私
・・・・・・
22歳の私より23歳の私
23歳の私より24歳の私
・・・・・・
だれだってそう。時の流れの中で経験が積み重なっていき成熟していく。
OT室から枝垂れ桜を見ていた頃、自分の時は止まっているように感じていた。
でも私の時間もとまってはいなかった。
毎日病院にいて、身体の休息に時間を費やす日々、何の成長も変化もない日々。
そんな日々でも振り返ると、時は進んでいて、あの頃の経験が今の自分の中に蓄積されていたことに気づく。あの頃もまた今の自分を作る経験や力の一部になっていることに気づく。
こんな自分なんてもう要らないと絶望してたあの頃の自分もまた今の自分を作ってくれている自分の一部であり、あんな自分だったけど今の自分には必要な自分だった。
○
時は有無を言わず進んでいく。誰しもの成熟を促す。
この2年と3ヶ月。自然と流れる時とともに、自分の歩みも進めてこれたように思う。
大学のこと、バイトのこと、パートナーとのこと、自助グループのこと、ソーシャルフットボールのこと、近くにいてくれる人を頼りつつ、自分でも歩いてきた。不安も虚しさも自己嫌悪も感じながら抱えながら押しつぶされそうになりながら、ちょっと頑張ったり、休んだり、でも自然と前に進む方を選んできた。
自然と成熟し、日々変化にさらされる社会の中で成長もしてきたと思う。
次の通院は2ヶ月後。毎日いたところから週に一回行くところ、隔週でいくところ、、、ちょっとずつ延びてきて、今年は枝垂れ桜を見逃した。
時は誰にでもどんなときでも平等に流れてくれて、誰であれ人を成熟させてくれる。
日々流れる時に身を任せるのもよし。
自分でも歩みを進められるときは歩いてみるのもあり。
その歩みの過程がどんな過程であれ成長が与えられるはず。
大事なのは時を自らが止めてしまわないこと。あの頃の自分に、時の流れの中にいようと必死に耐えてくれたことに、ありがとう。
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