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葡萄

「ぶどうが食べたい!いっぱい!地球が届くまで!」



7月最終週の午後。「おやつの時間だね。果物にしよっか?」という、私の提案の後の娘の言葉が壮大過ぎて、笑った。脳内に、お皿に山盛りの葡萄が現れる。葡萄はどんどん盛られて、空に届くほど高く高くなってゆく。


笑うと、身体が軽くなる。

数日前の出来事が、遠い昔のように思えた。


冷蔵庫にある巨峰(娘にとっては葡萄)は、2日前に実母がお見舞いで持ってきてくれたもの。その温かさは冷えることなく、そのまま保存されている。


二人の娘の陽性が判明したのは数日前。いつかは自分達も、と覚悟はしていたものの、いざ現実となると、覚悟は覚悟じゃなかったのだなと、思う。身体が納得するまでに、時間を要した。


言葉を交わさなかったが、まず夫と私の脳裏によぎったのは、"仕事"の二文字だったと思う。何日、仕事を休まなければならないのだろう。子供には、申し訳ない。子育てをしながら働くということは、そういうジレンマとの闘いでもあるんだ。…ごめんね。


夜が長く感じたのは、久しぶりだった。40℃近い高熱。頓服を飲ませても、暫くするとまた上がる。1日に2回しか使えない頓服は、1日に2回しか使えない生命の魔法の薬のように見えた。時計とその魔法薬を交互に見つめる。


未知の病気が、新型のウイルスそのものが、この恐怖を連れてきているわけではない。ぐったりした娘が、もしかしたらこのまま意識を失ってしまうのではないか。それが不安だった。夜が静かになるにつれて、闇が深まるにつれて、それは生き物のように胸のあたりを締め付ける。ウイルスの名前なんて、忘れていた。

  

          ◇・◇


幸いなことに、保健所から聞いた夜間の緊急連絡先のメモを、ダイヤルすることはなかった。

非日常は、日常の穏やかさを鮮明にする。


葡萄の甘さが、口いっぱいに広がった。


美味しいね、と笑える喜び

それぞれの、笑顔、それぞれの、喜び

地球いっぱいに、広がれ。

地球が、届くまで。

       

          ◇・◇


(2022.7月の備忘録🍇)



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