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囲碁史記 第35回 暗黒の時代の囲碁界 


 江戸時代中期、碁聖本因坊道策とその優秀な弟子たちにより囲碁は大いに発展していくが、家元筆頭といえる本因坊家において六世知伯、七世秀伯、八世伯元と相次いで当主が二十代、六段位で亡くなり道策らの技術は継承されず、囲碁界全体が活力を失っていく。
 この時代は、囲碁界の低迷時代、あるいは暗黒の時代と称されている。

春碩因碩と三度目の琉球使節


 寛延元年(一七四八)、囲碁界の暗黒の時代を象徴するような出来事があった。本因坊秀伯と勝負碁を戦った五世井上因碩(春碩)の不名誉な出来事である。
 まず春碩因碩について述べよう。
 父は江沢姓で下総の人。宝永四年(一七〇七)に生まれ初めの名は伊藤春碩という。享保十一年に(一七二六)、四世井上因碩の跡目だった井上友碩が没したため翌年の七月二十八日に再跡目となり、二十一歳六段で井上姓を名乗り井上春碩となる。享保十九年、四世井上因碩の隠居により家督を相続、五世井上因碩を名乗る。本因坊秀伯との勝負はこれまでに述べたとおりである。また、本因坊察元との争碁については別の機会に紹介していく。
 寛延元年(一七四八)十二月に琉球使節の具志川王子朝利(尚承基)が来朝する。二年前に八代将軍徳川吉宗から九代将軍徳川家重へ代替わりしたことに伴う慶賀使である。十五日に引見式があり、十八日に琉球人の舞楽が行われている。この後、随員の田上親雲上、与那覇里之子の二名が、宝永七年(一七一〇)の使節に倣い、島津家を通じて対局を願い出る。
 その連絡は井上家に対して行われるが、島津家の口上では中山王の願いもあり公儀の式典が済み次第二十八日頃にも帰国する予定であるため、本来、本因坊にも同様に願い出るところであったが井上家へ行われたようだ。当時の本因坊家当主の伯元は二十三歳五段とまだ若く、この時に唯一の七段であった四十二歳の因碩の方に願い出たのかもしれない。ちなみに五世本因坊道知ときには名人因碩が碁所として取り仕切っている。
 因碩は三家の了解を求め、月番寺社奉行稲葉丹後守に伺いを立てた上で、二十五日に薩摩藩邸にて対局することになった。
 因碩が田上と三子、門弟の岡田春達が与那覇と四子で対局が行われたが、結果は因碩、春達とも敗れている。
 勝った田上は五段(上手に先)の免状を求めるが、先例では三段(上手に二子)であったところから、四段(上手に先二)が与えられる。その際、因碩は免状へ名人井上因碩の時と同じ「日本国大国手」と署名している。
 この「大国手」は名人碁所の意味ではなく、中国で稀に見る大名人を意味する言葉である。そのままの意味でとれば春碩因碩がこの肩書を使うことは大いに問題であろう。名人因碩は名人であったのだから問題ないが、春碩因碩は七段である。この免状を出すには他の三家の了承を得なければならないが、国際的な免状でもあり、それなりの威厳と格式が必要と考えたのであろうか。当然、日本国内では通用しない肩書である。
 しかし、威厳と格式のために名乗った「日本国大国手」が逆に働いてしまったのか、この後の琉球使節では囲碁の対局は行われなくなってしまう。琉球にしてみれば当時の日本囲碁界の状況など関係なく、本因坊道策、名人井上因碩と同じ立ち位置である「日本国大国手」を三子で倒したことで、もう日本に学ぶ必要はなくなった。日本のトップとの差は詰まってきていると判断したのかもしれない。道策、名人因碩と春碩因碩では明らかに力が違い過ぎるため、「日本国大国手」の署名はかえって日本の威厳を傷つけたともいえる。
 春碩因碩は、安永元年(一七七二)、六十六歳の生涯を終えている。

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