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囲碁史記 No.2

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囲碁史研究家の視点により、囲碁の歴史を貴重な資料をもとに解説。 No.2は囲碁史記 第25回から第41回まで 碁聖本因坊道策の後継者の時代から低迷期を経て本因坊察元、烈元の登場に… もっと読む
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囲碁史記 第25回 道策の死と後継者

囲碁史記 第25回 道策の死と後継者


道策の死と遺言

 三世井上因碩(桑原道節)の時代は道策の死から始まった。
 元禄十五年正月下旬、道策は江戸本所の屋敷で病の床に就いた。病状が悪くなる一方であり、道策は弟子の井上因碩を枕頭に呼んだ。そのときのことが『坐隠談叢』に記されている。

 「予本因坊家を相続せし以来、古今稀なる囲碁の隆盛を見る。今死すとも憾なし。然れども、唯死後に跡目なきは、大いに憂慮する所なり。依て、今多くの門生中よ

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囲碁史記 第26回 名人因碩の碁所就任と琉球使節

囲碁史記 第26回 名人因碩の碁所就任と琉球使節


琉球使節の来朝

 宝永七年十一月、琉球使節が来朝する。その中の屋良里之子は天和二年の道策のときの様に本因坊道知と対局し、道知は三子置かせてこれに勝つ。そして天和二年の例により免状を願い出るのであるが、ここで問題が起こった。
 碁所が不在だということである。国際的な免状の発行者が碁所でなければ威厳がない。ということで因碩が碁所に就位することになる。

 これまでの通説によれば、『恕信見聞記』に

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囲碁史記 第27回 名人因碩の晩年と本因坊道知の名人就任

囲碁史記 第27回 名人因碩の晩年と本因坊道知の名人就任


名人因碩の著作『発陽論』

 名人因碩には幾つかの著作がある。その代表的な著書が『発陽論』である。発陽論は現在でも難解詰碁集として知られ、多くのプロ棋士が修行時代に勉強している。何度も再版され、何人かのプロ棋士が解説書を出している。
 発陽論は、もともと井上家の門外不出として伝わってきた。門人が高段を許されたときに奥伝として与えられたものと考えられ、別名「不断桜」と言われていた。
 版本としては

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囲碁史記 第28回 秋山仙朴と新撰碁経大全

囲碁史記 第28回 秋山仙朴と新撰碁経大全

秋山仙朴(小倉道喜) 本因坊道知の時代に囲碁界で特筆すべき事件が起こった。秋山仙朴(小倉道喜)と著書『新撰碁経大全』にまつわる騒動である。
 秋山仙朴は『新撰碁経大全』、『古今當流新碁経』などの著作があるが、その記述内容のために絶版、戸締めの刑を受けた。戸締めの刑とは門を釘付けし謹慎させる刑罰である。
 まず人物について述べておく。小倉道喜は本因坊道悦に入門し、その後道策門下となる。道策とは二子で

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囲碁史記 第29回 御城碁について

囲碁史記 第29回 御城碁について


御城碁の変遷 御城碁には、定例的な対局と、争碁を兼ねて行われる対局がある。経緯を見るに、安井家と本因坊家の碁所をめぐる確執が、御城碁の中に持ち込まれ、それにより御城碁の有り様も変化していった。
 両家の確執は中村道碩の後継を巡り正保二年(一六四五)に行われた本因坊算悦と二世安井算知の争碁に始まり、寛文・延宝を経て宝永(一七〇四~一〇)へと続く。寛文八年(一六六八)、幕命により二世安井算知が碁所に

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囲碁史記 第30回 拝領屋敷について

囲碁史記 第30回 拝領屋敷について

 徳川幕府成立初期の碁打ち衆はいずれも上方の出身であった。徳川家康の坊主衆であった林門入は別としても、本因坊算砂、利玄、中村道碩、安井算哲、井上因碩らは上方を本拠とし、毎年江戸へ長期出張するという形で任務についていた。これは後継である本因坊算悦や安井算知も同じであった。
 これら碁打ち衆は幕府から給された切米や扶持、拝領した黄金や白銀、時服をもって上方と江戸で本人や家族、弟子達の生計を賄っていた。

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囲碁史記 第31回 六世本因坊知伯

囲碁史記 第31回 六世本因坊知伯


本因坊知伯 本因坊知伯は宝永七年(一七一〇)に武蔵で生まれた。本姓は井口氏。五世本因坊道知が碁所に任命された翌年の享保七年(一七二二)四月に本因坊跡目として出願され六月に認可された。このとき十三歳である。願書によれば知伯は道知の甥となっており、手合は上手に二つ置く者(三段)に勝ち越しているとある。つまり跡目になったときは四段格であり、この年から御城碁に出仕している。

知伯の死 享保十一年十二月

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囲碁史記 第32回 七世本因坊秀伯と低迷の時代

囲碁史記 第32回 七世本因坊秀伯と低迷の時代


七世本因坊秀伯 まず七世本因坊秀伯の親類書を記す。

  佐藤秀伯親類書
父 野田三郎左衛門代官所奥州信夫郡上飯坂村百姓 佐藤勝右衛門
母  右同所百姓                佐藤太右衛門娘
叔父 右同断                  佐藤兵左衛門
弟  父手前罷在候               佐藤庄吉
従弟 右同国同村名主              佐藤弥五右衛門
右之外忌懸り

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囲碁史記 第33回 秀伯昇段をめぐる勝負碁記録

囲碁史記 第33回 秀伯昇段をめぐる勝負碁記録


 七世本因坊秀伯と五世井上因碩(春碩)との対局について『勝負碁記録』というものが残されている。秀伯の昇段をめぐって行われた番碁であるが、その記録を十一世林元美は『爛柯堂雑記 碁所由緒 坤』にまとめ題簽貼付している。記録の筆者名は記されていないが、猪股氏はその内容から当事者である五世林門入(因長)の覚書であるとしている。記録は林門入の覚えであることから省略や欠行もある。当時の表記で分かりづらい箇所

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囲碁史記 第34回 八世本因坊伯元

囲碁史記 第34回 八世本因坊伯元


伯元の生涯 八世本因坊伯元は武蔵国幸手郡天神島村(埼玉県幸手市)の尾崎家出身で、天文五年(一七四〇)、十五歳の時に七世本因坊秀伯の門下に入る。幸手市は伯元の後も九世察元、十世烈元を輩出している。
 尾崎家は農家であったといわれ、どのようないきさつで伯元が本因坊門となったのか分かっていない。しかし、伯元は入門の翌年に秀伯が危篤となると家元会議において跡目に選ばれている。安井家五世仙角が付添人となっ

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囲碁史記 第35回 暗黒の時代の囲碁界 

囲碁史記 第35回 暗黒の時代の囲碁界 


 江戸時代中期、碁聖本因坊道策とその優秀な弟子たちにより囲碁は大いに発展していくが、家元筆頭といえる本因坊家において六世知伯、七世秀伯、八世伯元と相次いで当主が二十代、六段位で亡くなり道策らの技術は継承されず、囲碁界全体が活力を失っていく。
 この時代は、囲碁界の低迷時代、あるいは暗黒の時代と称されている。

春碩因碩と三度目の琉球使節

 寛延元年(一七四八)、囲碁界の暗黒の時代を象徴するよう

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囲碁史記 第36回 中興の祖本因坊察元

囲碁史記 第36回 中興の祖本因坊察元


察元の出自 本因坊家で六世知伯、七世秀伯、八世伯元と三代にわたり当主が二十代、六段で早世したため、活力を失った囲碁界は低迷し、暗黒の時代とも呼ばれてきたが、道知以来の名人碁所に就任した九世本因坊察元の登場により低迷期に終止符が打たれる。そのため察元は「棋道中興の祖」とも称されている。
 察元は享保十八年(一七三三)、武蔵国葛飾郡平須賀村(現在の埼玉県幸手市平須賀)の間宮又左衛門の次男として生まれ

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囲碁史記 第37回 十世本因坊烈元

囲碁史記 第37回 十世本因坊烈元


烈元の出生地 察元の名人碁所就任によって本因坊家は大いに栄えていく。
 そんな察元の跡を継いだのが十世本因坊烈元である。烈元は寛延三年(一七五〇)の生まれである。
 出生地についてはこれまで江戸の生まれで「幕府御数寄屋方組頭の山本家」が実家といわれてきた。明和七年(一七七〇)、二十一歳六段のときに跡目となり、「山本家」については跡目願のときに提出されたものと考えられるが、その手続きで必須の親類書

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