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囲碁史記 第33回 秀伯昇段をめぐる勝負碁記録


 七世本因坊秀伯と五世井上因碩(春碩)との対局について『勝負碁記録』というものが残されている。秀伯の昇段をめぐって行われた番碁であるが、その記録を十一世林元美は『爛柯堂雑記 碁所由緒 坤』にまとめ題簽貼付している。記録の筆者名は記されていないが、猪股氏はその内容から当事者である五世林門入(因長)の覚書であるとしている。記録は林門入の覚えであることから省略や欠行もある。当時の表記で分かりづらい箇所もあるが、一方で門入の感情が表れているところも見受けられる。
 原文では読みづらいので、猪股氏の解説をもとに記録の内容を紹介していくことにする。

勝負碁実施の背景

 本因坊秀伯は十八歳、五段で本因坊家を継ぎ二十歳のときに六段へ進んだ。これは「仲ヶ間和順」の申し合わせによるものと解釈できると猪股氏は述べている。
 この「仲ヶ間和順」であるが、御城碁勤めは本因坊道知の時代以来、事前に申し合わせ、お互いの顔の立つよう仲良く勤めてきたとある。門入はこれを「仲ヶ間和順致し来り候」と記している。猪股氏は秀伯の昇段についてもこれにあたるとしている。
 秀伯が六段に昇段した享保二十年(一七三五)には他にも多くの昇段者がいた。林門入が半名人(八段)、井上因碩が上手(七段)、安井春哲が六段、相原可碩が上手である。相原可碩については後述する。
 この年の三月、四世井上因碩(因節)が没し、五世春碩が井上家を継いでいる。昇段した因碩とは春碩のことで、享保十一年、二十一歳のときに四世因碩の跡目となっている。
 安井春哲は安井五世で、この年、四世安井仙角の跡目となった。仙角はこの二年後の正月四日に没している。
 この勝負碁の記録を理解する上で、当時の家元たちの関係を整理する必要がある。
 まず、勝負碁は元文三年(一七三八)の林門入碁所就任志望行動に起因していると考えられる。そして、翌年には秀伯の上手への志望意志表示があり、ここからそれぞれの思惑が絡み合っていった。
 
 元文三年、林門入は碁所就任を望み、推挙に同意するよう井上因碩をもって本因坊秀伯と安井仙角(春哲)に要請している。このとき門入は四十九歳、秀伯二十三歳、因碩三十二歳、仙角二十八歳である。家元の中で最長老で八段半名人であった門入は、本因坊道知以来不在となっていた碁所には当然自分が就くものと思っていたのであろう。
 ところが秀伯と仙角はこの要請を断っている。
 
碁所の儀は古来より諸人と勝負を遂げ、業秀逸の者に仰せ付けられる儀に候。近年は手合等も内証にて相決め、御城碁表立ち候勝負碁致されず候処、碁所願い遣り候儀、決して罷りならず候旨因碩に申し聞かせ候。
 
 『本因坊家旧記』の内容である。道知の時代より家元はそれぞれの家の顔が立つようにしてきて、昇段なども時期が来れば異論なく行われてきた。しかし、名人や碁所に関しては別で、勝負によってその時代の最強者が就いている。安井算知のときには本因坊算悦や道悦が勝負を行い、後の時代にも九世本因坊察元と五世井上因碩、十二世本因坊丈和、十四世本因坊秀和は十一世井上因碩(幻庵)とその座を巡って争っている。誰の異論もないほどの実力があった四世本因坊道策や、各家元の顔を立てず本気で戦うと圧力をかけ渋る家元達に認めさせた五世本因坊道知もいたが、門入にはそのような実力は無い。碁所を望めば争碁での決着へと話が進んでいくしかないため、門入は断念に追い込まれている。
 林家の中で碁所を目指したのは唯一、五世林門入(因長)だけで、家元四家のうち林家だけが名人碁所を輩出することがなかった。
 この碁所推挙を断られたことが門入に遺恨として残ったのであろう。十一月十七日の御城碁のために十一月八日に本因坊宅で事前打ち合わせが行われたが門入は欠席している。御城碁は事前に対局の組み合わせを決め、書類を寺社奉行寄合の席へ本因坊が持参する慣わしであったが、その打合せの席を門入は欠席したのである。理由は秀伯の考えが判らないというものであったが、碁所推挙を断られたことが根にあることは確かであろう。
 本因坊宅での申合せには秀伯の他は仙角、因碩と林家の跡目林門利が出席している。秀伯は仙角と下相談をし、仙角を通じて門入りにも自分の存念を聞かせたという。
 秀伯は対局の手合、つまり段位を上げたいという望みがあり、御城碁は申合せの碁ではなく本当の勝負をしたいというものであった。これまで述べてきたように対局はそれぞれの家の顔が立つように申し合せてきたが、それを止めて真剣勝負をしたいというのである。そこには秀伯の上昇思考があった。確かに平穏にお互いの家のため、それなりに勝った負けたや昇段を決めていればそれなりの地位が約束されるが、他家を負かしてでも自身や門下の実力を上げていかなければ技量の発展はなく、現代の囲碁は無かったであろう。秀伯、次いで伯元の頃からこうした動きが見られるようになったが、大きく実力重視に舵を切ったのは九世本因坊察元の時代になってからである。道知が亡くなってから察元の登場までの間が囲碁界低迷時代となったのはそこにも原因があるのではないだろうか。

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