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囲碁史記 第26回 名人因碩の碁所就任と琉球使節


琉球使節の来朝


 宝永七年十一月、琉球使節が来朝する。その中の屋良里之子ヤラノサトノシは天和二年の道策のときの様に本因坊道知と対局し、道知は三子置かせてこれに勝つ。そして天和二年の例により免状を願い出るのであるが、ここで問題が起こった。
 碁所が不在だということである。国際的な免状の発行者が碁所でなければ威厳がない。ということで因碩が碁所に就位することになる。
 
 これまでの通説によれば、『恕信見聞記』にあるように因碩が林門入に意向を伝え、門入が道知を説いて碁所に推薦させたと言われてきたが、『井上家旧記』では、必要上から因碩の自薦を寺社奉行が是認したとしている。
 これに関して囲碁史研究家猪股清吉氏の研究がある。
 猪股氏は、当事者因碩の記録である『井上家旧記』には詳細が記されており、『恕信見聞記』などの偏りある史書の誤りを訂正してくれると述べている。『井上家旧記』をもとに詳細を日付ごとに見ていこう。

 宝永七年(一七一〇)十一月十八日、六代将軍家宣が琉球国中山王を謁見。二十四日、井上因碩方へ薩摩藩主松平(島津)薩摩守吉貴の使者が参り、中山王随行棋士屋良里之子の対局希望を伝える。二十五日、因碩は本因坊道知へ問い合わせ、琉球棋士の扱いを先例に従って対応しようとしたが、内々の公儀へ伺うべきとの声により月番寺社奉行本多弾正少弼宅へ罷り出で、役人を通じてその対応を伺う。「本件に関しては以降寺社奉行に伺いその指図に従うべし、先例の手合免状の儀も書付を以って明晩持参するよう」仰せ付けられる。二十六日、因碩は「屋良里之子の手合い申し入れは、御支配へ尋ね候上にて返答申し上げる」と薩摩藩家老へ書信する。本多弾正殿へ道策のときの手合い免状の書付を持参する。
 二十七日、因碩は寺社奉行本多弾正殿宅へ罷り出て書付を以って伺う。その書に曰く。「因碩儀、道策より遺状受け、一派の手合わせは相許し候えども、今回は異国の儀に御座候えば、碁所にてこれなく如何挨拶仕るべく候や」と伺う。本多弾正は、「翌十二月の月番寺社奉行は安藤右京亮殿(在任二年目、本多弾正と担当、補佐的立場)ゆえ、既に薩摩侯より老中に伝えてあり、一日まで引き延ばせないので、早々に安藤殿へ伺って指示を仰ぐよう」仰せられた。それより安藤殿へ書付を持って伺う。安藤殿は老中へ伺った上で沙汰する、かつまた「先例委細吟味し明朝参るよう」仰せられた。
 二十八日、因碩は寺社奉行安藤右京亮殿宅へ参上。役人より「薩摩候より老中に伺い済みゆえ、相手方より申し入れあり次第参会(碁会)してよい」と仰せ渡された。そして対局要領を問われ、道知が三ツ置かせるのが良いかと思うが、もし私因碩でしたら四ツ置かせます。その時は両家の弟子五、六人連れて行きたく思うが「いかが思し召され候や」と伺う。これに対し安藤殿は「それらは必ず伺う程のことでもなく、また自分(寺社奉行)よりこれ然るべしと指図するのはどうかと思う。只今その方こと碁所同様に候えば国の為宜しきよう致されて然るべし」と仰せられた。薩摩候使者が「朔日碁会相催されたき」旨、本因坊、因碩両家へ来る。その旨安藤殿へ申し上げたところ、その対局の様子を翌日書付で報告するよう仰せられた。
 『井上家旧記』の記述を読みやすくしてみた。一連の流れがわかりやすく伝わると思う。
 
     
 今度私儀者碁の願計に中山王より被差越候所に、右様御覧被下、殊に上手の本因坊御相手に罷成、本望の至に奉存候、此上中山王より第一之願は、先年浜比賀親雲上通之御免状被下候様願候、左候はゞ中山王可為大慶候、何卒宜様奉願候、此儀第一之願に付、差越被申候。
 中山王承及び被申候儀御座候間、碁之趣共少々御相伝奉願候、其外御作碁石立作物碁の心持、御書付を以て御相伝被下はゞ中山王へ為見申度、万端奉願候、以上。
   十二月朔日       屋良里之子 印判
 
    井上因碩様
     帯刀方より之添手紙
 琉球中山王其許之儀承及、琉球人屋良里之子と申者碁稽古為仕度、今度差上候使者の内に差越候、碁稽古の儀、薩摩守へ従中山王相願候に付、先日其旨従薩摩守被申達、被相伺候上、今日屋良碁御覧被下、依之屋良より別紙書付を以て願儀御座候間、何卒願の通被成度、薩摩守存候、以上

   十二月朔日         島津帯刀
 
     井上因碩様
 右両通の書翰因碩方に有之候、依之返答申候者、段々御念入候趣、一々承知仕候、支配方へ相伺、追而返答可申上候と挨拶仕候、其節又屋良改候て罷出、今日の趣別て辱礼義相述申候、夫より五ツ時帰宅候。
  十二月朔日於松平薩摩守殿琉球人碁興行之覚
     中押勝  本因坊
     三ツ置  屋良里之子

 
     五ツ置  仲原筑登親雲上
     中押勝  井上因碩
 
     先二ツ置  仲原筑登親雲上
     打分    坪田翫碩
 
定先三番打一番勝  相原可碩
          児玉賀俊
   見物
          美里王子
          豊見城王子
          富森親方
          与座親方
          親城親雲上
          江田親雲上
          屋宜親雲上
          井上因碩
          同因節

  松平民部太輔殿家来手合六段 松島利節
  戸田采女正殿家来手合六段 高橋友碩
  松平土佐守殿家来手合五段 井家因長
  松平穏岐守殿家来手合三段 相原可碩
               坪田翫碩
  右五人本因坊と因碩両家の弟子也

  
 十二月一日の碁会の顔ぶれと様子である。『井上家旧記』を元にこの後の流れも見ていこう。
 十二月一日、因碩、道知は両家の弟子四、五人連れて薩摩藩屋敷へ向かう。屋良里之子、道知に三子で対局、道知中押し勝。外それぞれ対局や出席者は右の通りである。
 二日、因碩、月番寺社奉行安藤右京亮殿へ昨日の碁会の様子の書付を提出。将軍の上覧に供される。そのとき奉行より手合免状下書き文体如何したか問われる。因碩は、「念を入れて下書きを作り、林大学頭殿(幕府直轄の学問所=湯島昌平坂=今様はその学長)に見て頂きますと答える。奉行はもっとものこと、下書き出来次第早々見せるようにと仰せられた。免状文案は林大学頭弟子小宮山忠兵衛が文案を調え、林大学頭の添削をへて出来上がった。道策のときも同手法をとったが、そのときの来聘は王子であるのに、今回は中山王本人である。当然それなりの格式に大きな差がある。道策のときの免状は「上手に二子」、記名者は「本因坊道策・印」であった、肩書きはない。今回は「免許状」とし、上手を国手に改め「国手に二子」、記名者に肩書きを入れ「日本国大国手・井上因碩・書判・朱印」である。その本文は一九一字に及ぶ格式の高い文面になっている。大国手は国手の上、国を代表する意。国手や大国手は外向きの表現。内向きな上手や碁所は外交文には馴染まないと学問所は考えたと推測する。
 

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