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囲碁史記 第25回 道策の死と後継者


道策の死と遺言

本因坊道策の墓(本妙寺)

 三世井上因碩(桑原道節)の時代は道策の死から始まった。
 元禄十五年正月下旬、道策は江戸本所の屋敷で病の床に就いた。病状が悪くなる一方であり、道策は弟子の井上因碩を枕頭に呼んだ。そのときのことが『坐隠談叢』に記されている。
 
 「予本因坊家を相続せし以来、古今稀なる囲碁の隆盛を見る。今死すとも憾なし。然れども、唯死後に跡目なきは、大いに憂慮する所なり。依て、今多くの門生中より選抜せんと欲し、之を見るに心に叶ひたる者神谷道知一人あるのみ。道知今年十三歳にして、二つの碁なりと雖も、彼、生得聡明、怜悧且温恭にして、世に稀なる奇才なれば、将来必ず蓋世の妙手たらん、故に彼を以て跡目となす、予死せば、汝道知の後見となり、輔翼奨励して、名人碁所たらしむべし。又汝今上手の手合なるも、自今、半石進めて、名人上手間の手合たるべし。」
 
 道策はさらに因碩に言う。
「吾死後に於て、碁所のみは決して自ら欲望すべからず、必ず道知をして之を相続せしむべし」

 因碩に碁所を望むな、神谷道知に相続させるべしと遺言したのである。安井、林の両家、さらに将棋方の大橋宗桂を立合わせ、因碩に将来碁所の野心が無いということを誓紙に認めさせた。道策は大いに喜び、神谷道知を後式(死後の後継者)とし、因碩を後見とした。道策は三月二十六日、五十八歳で死去。丸山本妙寺に葬られる。法名を日忠。
 なお、それまでの歴代本因坊は初代算砂が住職を務めた京都の寂光寺に葬られていたが、遺言により四世道策が本妙寺へ葬られると、菩提寺として以降の当主も本妙寺へ葬られるようになった。
 因碩に碁所を望むなという道策の遺言についてはいくつかの解釈があり、これがまた難しい。
 道策は道的、策元という跡目を二度続けて失い、それ以上跡目を設けていなかった。そして神谷道知には道策の実子説がある。これには確かな証拠や根拠があるわけではないが、道知はこのとき十三歳であり、まだ将来どれほどのものになるか分からない道知に碁所を相続させよというのだから、実子ではないのかというのである。この頃の本因坊家は後の本因坊家とは違い、当主はまだ清僧(妻帯しない僧)という立場であった。しかし、だからといって子供がいなかったということにはならないのではないか。つまり公にはできないが隠し子がいて、それが道知であったというのである。そう考えれば道策の道知への思い入れも分かるというものである。
 しかし、名人碁所は道策の私物ではなく、それに相応しい人物が就くべきものである。道策の遺言は因碩にとっては気の毒であり、人格高潔な道策にとっては終局間際の失着と論じる意見もある。
 一方、道策を弁護する論もある。
 道策は因碩に対し「碁所を望むな」と言ったのであり、「名人になるな」とは言っていないというのである。確かに後に名人となってからしばらくして碁所になった人物(九世本因坊察元)もいる。しかし、本来名人と碁所は共存するものであり、これは苦しい弁護と思われている。
 もう一つ、道策は師として因碩が碁所の器ではないことを見抜いたという論もある。因碩がどんなに頑張ってもこれ以上は望めないと見切った道策が碁所を認めなかったというのである。
 この道策の遺言に関しては研究者、囲碁ファンの中でも意見が分かれるところである。
 
 結局、井上因碩(道節)は名人になっている。五世本因坊道知の成長後のことであるが、今回は名人因碩のことについてのみ述べることにする。
 はなしが前後するが、道知の成長に関しては次項で述べる。
 因碩は道策の遺言により道知の後見を務めるため、井上家の屋敷から本因坊家へ移っている。このとき五十七歳である。
 その後、道知は上手に進んで四世安井仙角との争碁に勝ち、因碩自身との十番碁経て宝永五年(一七〇八)に後見が解かれている。そして、因碩は七年ぶりに井上家屋敷へ戻った。
 『本因坊家旧記』によると宝永五年十月に因碩が名人になったとある。しかしこのときには碁所になっていない。因碩が名人となったのは道知や他家の推薦があったためと思われ、道知としては育ててもらった恩に報いるためであったと考えられる。

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