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心と身体の関係について考えてみたい

人間性心理学の授業で、心と身体の関係が題材として取り上げられてた。授業の復習も兼ねて書かせろください。

ココロとカラダは分けるべきか?

初期の心理学はデカルト(我思う、ゆえに我ありの人)の「心身二元論」がルーツとなってて、身体は生理学の一つとして心と切り離されて研究されてきたんだって。でも、本当に心と身体って分けちゃっていいの?っていうのが議論に上がった。

人間性心理学の立場から

人間性心理学はそのような近代的な心理学を批判する立場で、心理学における身体の重要性を主張しているみたい。心身二元論の立場から見てみれば、私たちの身体って言っちゃえばただの肉の塊な訳だよね。それを自分たちの脳が「自己の身体」と勘違いしてるっていう主張が通れば、身体、または精神から自分が切り離されたような感覚、例えば離人症が正常な状態になる。離人症を差別しているわけではなく、普通に自分の感覚がある人が異常となってしまう。つまりは、私たちの身体が失くなっても、脳だけ綺麗な状態で保存されていれば、「自己」は維持されるっていう理解が含まれているということ。

自己を意識するということ

上記で述べた離人症の症状の一つとして、脱身体感、自分の体が自分のものでないように感じるっていうものがある。それが重症化すると、コタール妄想といって、「私はすでに死んでいる」という感覚が生じることがあるらしい。ということは、脱身体感が強まって、自分の身体との接触が失われると、それと同時に自分が自分であるっていう「自己」も失われちゃうってことなんだよね。つまり、脳だけでは正常な自己を維持できないってわけ!関暁夫が出てきたのは置いといて、もう一つメルロ=ポンティっていうフランスの哲学者がいるんだけど、この人は人間の「二重感覚」っていうのを根拠にして自己を意識する時の身体の重要性を主張してる。一回、自分の右手で左手を触ってみて。するとさ、「右手が左手の感触を感じる」少し後に、「左手が右手のあたたかさを感じる」ようになると思うの。これが二重感覚っていって、身体は身体を意識する、つまり、身体を通じて自己を意識するってことなんだって。何が言いたいかっていうと、心身二元論に反して、「私が私を意識する」っていう自己意識は、もともと身体に根付いてると思うって人間性心理学は主張するとのこと。

テキトー見解 哲学の重要さ

こっからは私がぶつぶつ言うだけなんだけどさ、やっぱり心理学と哲学って切っても切り離せないよなーって思う。哲学を考えるときに必要な、あたりまえのことを疑ってみる、今回の話だったら、「なんで肉の塊の人間が心を持って脳を持って考えられているのか?」って言うことを真面目に考えてみるってことだよね。思いつく?そんなこと笑。でもやっぱりそういう哲学的な思考が心理学に関与しなかったら、精神分析とか行動主義的な考え方が心理学の分野を牛耳っちゃって、人間は結局脳に動かされてる自由意志なんて持たないロボットで、刺激に対し特定の反応を示すだけの装置でしかない、っていう考えしかなくなっちゃうわけだよね。おそろしい。担当の先生も初回の授業から、人間性心理学っていうのは精神分析とか行動主義とかとは違って、人間の反応や心は個性的で、過去にとらわれずに現在の決断によって未来を切り開く存在、自由な存在なんだよっていうことを強調してた。だからみんな、詰んだら人間性心理学の本とか読んでみよう。

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