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【続いてる写経 1278日め】"高野聖"は僧侶ではなかったのか❓

本日は高野山納経用紙に書きました。

さて、高野山には有名・戦国武将のお墓が連なり、高野山と武将とは深いご縁があるのは誰もが知るところ。

司馬遼太郎さんの小説、秀吉が主人公の『新史 太閤記』でも、少年・秀吉(当時は藤吉郎)が高野聖の一行の様子を伺うシーンから始まるのです。

”高野聖”とは、弘法大師空海による真言宗の教えを広めるために諸国を回っている僧侶のことでした。
が、戦国時代の”高野聖”は、この時代に人気を得ていた”一向宗”におされて、経典布教よりも、行商人にとして旅して回る日々だったようです。

しかも、現代人がイメージする”聖(ひじり)”とは、全く違う意味で”聖”なのです。

聖とは、当節の語感からいえばシナでいう聖人というようなものではない。乞食、物乞い、浮浪者、他人の嬶盗り、といった語感に似ている。事実そういう生活形態の者どもではあった。

『新史 太閤記』司馬遼太郎・著より引用

乞食同然の卑しい存在で、物盗りもやっていたという。

従って、庶民のほうにも人気がなく、藤吉郎が住んでいた尾張あたりでは、
ヤドウカイ(野盗怪)」と呼ばれて警戒されていたとのこと。

そんな尾張の村で、宿を借りられず途方に暮れていた高野聖の一団のために、藤吉郎が機転を聞かせて宿を手配するのです。

高野聖との交流は、小説の冒頭で藤吉郎、のちの秀吉の才覚がこの頃からあったというエピソードの一つなのですが、
秀吉の機転やキャラクターよりも、

”高野聖”≠高僧

これを知ったことのほうが、ワタシにはインパクトが大きかったです。

しかも、この高野聖の一行、あとで悲劇的な結末を迎えることになるし…。

よく高野山と真言宗生き残ってきたな〜って思いました。

そう、高野山が無事だったのは、のちのち秀吉のお陰によるのですよね。
それはまた日を改めてということで。

余談ながら、「聖」=乞食 って意味合いがあったということは、
数ある八ツ橋メーカーのなかで、この名称はビミョーな感じですね。。

Wikipediaより

聖護院八ツ橋、いちばん好きなんだけどなあ。

これから八ツ橋みるたびに、思い出してしまいそう。

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