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ショートショート「道標」


ずっと、退屈した、鬱蒼とした世界だった。
だから、私は、言葉を知っていても、発しようとは思わなかった。
無論、誰にも伝えたいとは思わなかった。
無機質な現実だった。
あの日、君と出会うまでは…。

学校から帰ると、隣の家の畑に女の子が立っていた。
その子の顔を見つめると、とても印象的な瞳をしていた。
真っ直ぐに自分の目を見つめてくる真摯な瞳に
生まれて初めて胸が騒いだ。
彼女は、私の姿を見るなり、深々と頭を下げた。
ザワザワザワ
私とその子の間を風が通り抜けていった。

彼女は、朝から晩まで畑仕事をしていた。
私と違って、学校には行っていないみたいだった。
ある日、近所の人が彼女の噂話をしていた。
彼女は、隣の家の養女だった。
学校にも行かせてもらえず、朝から晩まで、身を粉にして、働いていたのだ。
私は、畑を見れば、その人の性格が分かる。
畑には雑草がなく、野菜も測ったかの様に均等に並んでいた。
近所の人も、その見事な畑に驚いていた。
彼女は、私よりも年下だったのだ。

ある日、学校の先生が隣の家を訪ねた。
彼女の優秀さに、是非学校に来て欲しいと伝えたのだ。
しかし、隣の家の母親は、いつまでも首を縦には、振らなかった。
私は、畑に出ていた彼女に、使わなくなった教科書を渡した。
彼女は、もし、義母に見つかったら、怒られると私の古い教科書を返そうとしたが、私は、もし家族に見つかったら、そこで拾ったと言えば良いと彼女に言った。
すると、初めて彼女は、私に笑顔を見せた。
そして、私の手を握り、「ありがとう。」と初めて言った。
私は、彼女の目を直視する事が出来なかった。
不恰好なお辞儀をした。
それが、私の精一杯だった。

次の日から彼女は、私が渡した古い教科書で勉強を始めた。
もちろん、家族にはバレない様に、物陰に隠れて。
しかし、彼女に勉強を教えているのは、私ではなかった。
私より、言葉の上手い兄だった。
私は、口下手だったし、コミュニケーションが下手くそだった。
だから、仕方のない事だと、自分に言い聞かせた。
私は、二人が楽しそうにしている姿を見る事ができなかった。
ザワザワザワ
何故か、私の心が妙に騒ぎ出した。
私は、次第に、自分の家に引き篭もる様になっていった。

あれから、どれ位年月が経ったのだろうか?
案の定、兄と彼女は、恋仲になっていた。
この狭い町で知らない人がいない位に。
頭の良いもの同士、お似合いな二人だった。
たった一人、私を除いては…。
私は、今でも、彼女の美しい瞳と佇まいを忘れる事などできなかった。
私だけが、唯一、この狭い世界で、二人の事を認めてはいなかった。

兄と養女の恋を、うちの両親は、認める事はできないと言った。
仮に、私であろうとも駄目だったのだが…。
今の時代では、考えられないかもしれないが、昔は、それほど、厳しい時代だった。
しかし、兄は、本気だった。
私に真剣な目で彼女と駆け落ちすると言った。
二人の愛は、それほどまでに真剣だったのだ。
その言葉は、私を絶望のどん底に叩き落とした。
私は、このままでは、彼女を永遠に失ってしまうと思ってしまったのだ。

二人が駆け落ちをする日。
私は、兄に彼女が大怪我をして病院に運ばれたと嘘を吐いた。
兄は、大慌てをして、彼女のいない隣町の病院へと向かった。
そして、私は、二人の待ち合わせ場所へと向かった。
そこには、凛とした彼女が一人佇んでいた。
こんな時に、私は呑気にも、彼女との初めての出会いを思い出していた。
一瞬、こんな事はしてはいけないと思った。
しかし、彼女の瞳を見つめた途端、自分のものにしたいと強く思ってしまった。
理性が欲望に負けた瞬間だった。
彼女は、私の姿を見るなり、大声で泣きながら、その場に崩れ落ちた。
頭の良い彼女の事だ。
もう、兄が来ない事を一瞬で悟ったのだろう。
私は、無言で、彼女の手を取った。
そして、無理矢理奪い去ってしまったのである。

私達は、二人を誰も知らない土地で、二人だけで祝言をあげた。
私は、これで良かったのだと自分に言い聞かせた。
私は、長男ではなくて、次男だ。
だから、それ程までに問題にはなってないのだと思う。
もし、駆け落ちをしたのが、兄だったら、両親も血眼になって、二人を探し出し、無理矢理にでも別れさせたことだろう。
彼女の運命の男は、私だったのだ。
これまでも。
いや
これからも…。

あれから、また、かなりの年月が経ち、私達の子供達は、それぞれ独立していった。
私は、また彼女と二人きりになった。
彼女の瞳を見る度に、胸がざわついて仕方がなかった。
臆病な私は、未だに彼女に確認をしていなかった。
本当に、私と結婚をして良かったのだろうか…。
しかし、勇気がなく、いつまでも、彼女に真実を聞く事が出来なかった。

ある朝、私は、いきなり倒れた。
物凄い音がしたので、彼女がすぐに駆けつけて、救急車を呼んでくれた。
彼女は、私の手を握ってくれた。
私が、彼女に古い教科書を渡した時みたいに。
彼女は、私の手を握り続けてくれた。
自分の運命の相手を奪い去った男の手を…。

私が目を開けると、彼女が心配そうに私を見つめていた。
私は、心底、驚いた。
彼女は、病院の花瓶に蓮華の花を飾っていたのだ。
それは、私が好きな花だった。
「蓮華の花、知っていたのか?」
私が尋ねると、彼女は言った。
「はい。私は、覚えております。あなたが、人に踏まれた蓮華の花を真っ直ぐにしようとしていた姿を…。だから、私は、田んぼに生えた蓮華の花を全て、山に植え替えました。義母には、かなり怒られました。蓮華は、良い田んぼの肥料になりますから…。でも、私は、蓮華を潰す事は出来なかったのです。あなたが必死に、蓮華の花を元に戻そうとする姿が目に焼き付いて…。」
私は、彼女の言葉を聞いて、無言で涙を流した。
そして、やっとの事でこう言った。
「一緒に故郷に帰ろう。そして、あの山の蓮華畑を見よう。君の小さな手で植え替えた畑を…。」
彼女も泣きながら、頷いた。
「早く、お身体を治して、一緒に行きましょうね…。」
と…。
そして、また、私の手を握った。
温かい。
私は、久しぶりにやっと、心の底から、そう思えたのだった。









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