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ショートショート「白衣」


人は、思わぬ所で意図せずに、恋に落ちるものである。
その人を好きになろうとして、恋を始める人間など滅多にいない。
私は、こんな所で恋をするなどとは、全く思ってはいなかった。
田舎の外れにある、狭い狭い学習塾で…。

私の高校の白い成績表には、その教科の点数の下に、定規で丁寧に赤い線が引かれていた。
私の家族や親戚は、頭が良く、皆優秀だったので、前代未聞だった。
成績表を手渡した両親の顔は、二人して凍り付いていた。
頭を抱えた両親は、私を学習塾に通わせる事にした。
私は、基礎が出来ていなかったので、通塾は無駄に終わると、頭では分かっていたのだが…。

塾には、アルバイトの大学生講師がいた。
何故か、皆、白衣を着ていた。
大学生達の顔は、まだ若々しい。
白衣を着ていなければ、生徒かどうか見分けがつかない。
講師と生徒の線引きが、白い白衣一枚だった。
私の目には、その白い姿が、酷く新鮮に映った。
赤点で、自信を失っていた私は、自分以外の人間は、優秀な大人に見えた。

私は、白衣を着た一人の先生に、数学の問題の分からない所を質問に行くと、コピー用紙の裏の白い部分に、つらつらと数学の解答を書きながら、説明してくれた。
同じ人間で、数年間しか年が離れていないのに、この違いは、一体、何なのだろうか…。
私は、酷く、狼狽した。
それと、同時に自分の人生の行き着く先が、分からなくなった。
こんな所で、簡単に躓いでいたら、私は、この先、何年も、どうやって生きていったら良いのだろうか…。
そう考えると、急に、目の前が真っ暗になった。
頭がくらくらした。

「大丈夫?気分、悪い?」
白衣の先生が、私に体の具合を聞いてくる。
まるで、ここが病院みたいで、苦笑するしかなかった。
先生も、この微妙な空気が分かっているみたいで、頭をぼりぼりとかきながら、
「本物じゃなくて、ごめんね。」
と少し微笑いながら、頭を下げた。
頭が良い人って、良いなぁと素直に思った。
この空気ごと、家に持って帰りたいなぁ…。
なんて、少し勝手な事を思ったりしていた。
はじまりって、こんな些細な事がキッカケになったりする。

私は、塾に通う度に、先生の姿を探した。
先生は、いたり、いなかったりした。
そこが、学校で会う同級生達とは違った。
彼等は、教室に行けば、大抵、会えたりする。
それは、私には、酷くつまらなかった。
先生は、会いたくても、会えなかった。
それが、燻っていた恋心を強烈に後押しした。
恋が、うまく回転するには、スパイスが必要だった。
特に、若くて、脆い恋には…。

通塾して、二年が経った。
この頃には、先生とは、友達の様に仲が良くなっていた。
私の想いが募れば募る程、相手の気持ちが手に取る様に良く分かる。
先生は、私の事を何とも思っていなかったのだった。
数いる生徒の中の一人…。
それが、かえって私の心を燃え上がらせた。
私の頭の中には、四六時中、白衣姿の先生がいた。

私は、先生と、だいぶ親しくなったのをいい事に、数学の問題とは関係ない質問をしてみた。
「先生は、何で、塾の講師になったの?」
先生は、いきなりの私の質問に、最初は、頭をかきながら、困った様な仕草を見せた。
私は、小さな声で、
「問題に関係のない質問をしてしまって、すみません。」
とポツリと言った。
すると、先生は、遠くを見つめながら、こう言った。
「人生は、取捨選択だよ。自分で掴み取ったり、捨てたりなんかして…。そうして、辿り着いたのが、今だ。」
人生は、取捨選択…。
私は、先生の言葉を胸の中で、何回も反芻した。

ある日、狭い塾の中で、躓いてしまい、こけそうになった。
すると、私の身体を支えてくれた人がいた。
先生だった。
先生の手は、大きかった。
そして、力が凄く強かった。
「ありがとうございます。」
先生にお礼を言った後、フラフラになりながら、休憩ルームの椅子に腰をおろした。
私は、先生にときめくどころか、更に具合が悪くなった。
そんな自分に自分が、一番驚いていた。
私にとって、先生は、単なる憧れだったのだ。
リアルな恋ではなくて、自分の脳が作り上げただけの恋。
私は、幼稚すぎた。
先生の手が、私の身体に触れた時、幻が急に現実になって、恐ろしくなったのだ。
そして、私の身体は、拒否反応を示した。
酷く、気分が悪い。
私は、その時、自分という生き物は、本当に心の底から、好きになった男の手しか受け付けないのだと知った。

次の週。
私は、塾に行く気がなくなった。
初めて、塾をサボった。
今まで一回もサボった事がなかったので、塾に連絡も入れずに、適当に時間を潰した。
結果的に、それが悪かった。
塾の担当者は、家に連絡をしてしまった。
そして、私が、家に帰るなり、何故、塾をサボったのか大問題になった。
両親は、私が赤点を取った時よりも、心配そうな顔をして、私を見た。
私は、とうとう塾でも勉強についていけなくなったと親に説明をした。
両親は、私を追い詰めてしまったと謝罪して、来週から塾には、行かなくて良いと言った。
こうして、私は、塾をやめることになったのである。

私は、自分の人生を他人に預けたりするのだけは、やめようと思った。
自分の人生は、自分が切り開いていかないと意味がない。
私は、ただ逃げていたのだ。
自分の人生から。
人生は、取捨選択だ。
先生は、あの時、私に、こう教えてくれた。
私は、もう一度、根気強く、基礎からやり直すべきだと悟った。

そして、桜が舞う一年後の春、私は自分自身の力で大学生になったのだった。
入学式が終わり、沢山の新入生達とすれ違う。
その内の一人が、スーツの上着を脱いで、はしゃいでいた。
春の光が、白いシャツを照らす。
私は、思わず、その姿を凝視した。
そして、桜の木の下で立ち止まり、静かに瞼を閉じた。
今でも、脳内に、先生の姿が浮かび上がってくる。
でも、以前みたいに鮮明ではなかった。
顔も朧げにしか思い出せない。
それでも、私の中の先生は、これが正解だよと笑っている様な気がした。



















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