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心の絆

今は教師になりたいという人が減ってしまって、教育委員会はなんとか人材を探すのに苦労している。
アホノミクスで教育現場が荒廃してしまうまでは、教員の人気は結構高かった。
私たちの時代は教員にそうそうなれるものではなくて、旧七帝大と言われる大学出でも高校教師になったりしていた。
かなの両親は共に小学校の教員であり、娘も教師になることを望んでいたので、かなが小学校の教員免許を取るというと喜んで援助してくれた。
これは彼女の計算によるもので、通信教育だとスクーリングの機会を上手く利用して、私に会いに来られると思ったのだった。
そして、教員になれば私が研究者になれるまで、支えられると言っていた。
実際に私が所属した大学院の博士課程にはそういう人がいた。
ただ、当時のかなは教員免許を取ることに専念しており、働いていなかったので、金銭的には親に頼るしかなかった。
働いていないので、時間に縛られることはそうなかったが、金銭面で窮して学生の私からお金を借りねばならないほどだった。

かなと逢えたのは当初は私が教育実習や夏休みに帰省した時だけだった。
私が帰省の折りに逢う時は、岡山とか広島で落ち合った。
かなは親に黙って逢いに来ていて、日帰りだったので一緒にいられる時間もあまりなかった。
彼女のスクーリングが京都であって、台風が襲来している中、何とか都合をつけて名古屋にまで泊まりがけで来てくれた。
それまでは、一緒に方々に出かけてゆっくり旅を楽しめたのに、ただ逢うだけが精一杯となった。
ただ、一度だけ私が帰省している時に京都に泊まりがけで一緒に旅することが出来た。
その2年前にも京都にはふたりで旅したが、今回はゆっくり哲学の道を歩いたり、三千院の庭を眺めたりした。
かなは京都が大好きで、楽しかった旅の思い出とまた一緒に旅したいとその後の手紙には書いてあった。
しかし、結果的にはそれが最後の京都旅行になった。

遠距離恋愛はよく歌にも歌われて、たいていは別れで終わる。
それぞれの住む場で、それぞれの別の暮らしと関係ができてしまい、心が離れていくからだと思う。
その点で言えば、かなの学生延長計画はその別れる原因を一部解消していた。
親からの学資援助を貰えたから、彼女自身仕事や人間関係にに縛られることが無かったからだ。
私にとっては、それまで休日にさびしい思いなどあまりしなかったので、孤独に慣れるのに時間がいった。
それでも、大学院への受験勉強や、教育実習、学会発表、卒論の作成などそれなりに忙しく暮らしていた。
そして、親しい女友達や遊び相手もいたので、寂しさも紛らせることができた。
かなもそれを知ってはいたと思うが、私を追い詰めると却って別れを招いてしまうことはよく分かっていた。
そして、かなは何が何でも私を信じようとしているのが、私は分かっていたので、裏切ることはできなかった。

いくら、私がうわべでは浮気者のように振る舞っていても、身も心も許しあったふたりの絆が確かなものだと信じていたのだと思う。
かなとふたりで過ごした二年間の年月がふたりのしっかりとした心の絆になっていた。
私は束縛からのがれて自由に生きることも夢見たが、それがある意味で孤独を意味することも分かっていた。
かなとの絆があったからこそ、本当の孤独から逃れて自由な生き方がができていた。
彼女の手紙には、ただ「愛している」という言葉しか気持ちを表せていない。
この先10年でも私の研究を支えたいという意思も書いてくれている。
後に大学院に入ってから知り合った、同じ修士課程の恋人同士がいた。
その彼女から「この先どうするの」と聞かれただけで、「分かっていない」と言って別れた院生を知っている。

同じ大学院の仲間や先輩は、殆どの人が大切な恋人との別れを経験していた。
本当は、恋人のためにちゃんとした仕事につくべきなのだろうが、一旦進んだ道を途中で辞めることは、夢と未来を失うことを意味していた。
当時のかなには、大学院生の置かれていた先行きの見えない不安な暮らしが、本当は理解できていなかったのかもしれない。
ただ、分からないまでも、覚悟を決めて一緒に歩もうとしてくれていた。
親に縛られ続けていた彼女にとって、自由になるためには私との絆がかけがえのないものだと思っていたのだとも思う。
そして、私が研究を続ける上でも、かけがえのない大切な絆だった。
何よりも、彼女の愛こそが、愛に飢えていた私を、少しはましな男に育んでくれていた。




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