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中尾良信「日本禅宗の伝説と歴史」吉川弘文館


禅宗の開祖達磨について恥ずかしながら初めてわかったことがいくつかあった。「洛陽伽藍記」という信頼性の高い記述に「波斯国(ペルシャ)からきた達磨が洛陽の永寧寺の美しさに感嘆し、連日「南無」と唱えて立ち尽くしていた」とあるらしい。そう、中国禅宗の開祖である達磨はインド人あるいはペルシャ人だということだ。確かに達磨図をみると胸毛も濃いし?風貌も中東系だ。今の禅宗は六祖と呼ばれる慧能が祖と仰がれている。

日本の禅宗は開祖として栄西の存在が昔から取り上げられてきたが、著者は中国天台宗の開祖、南嶽慧思の生まれ変わりとしての聖徳太子が達磨と出会っていたという伝説について「元享釈書」を元に紹介している(この伝説を日本に持ち込んだのは鑑真)。

日本の禅宗伝来に大きく貢献したのは最澄である。桓武天皇の後援で中国にわたり、中国天台宗等から学んだ最終結論は4つの教え(法華円教・菩薩戒・禅・密教)であった。円・戒・禅・密教の「四宗相承」が日本天台宗の基となっている。実は「南嶽慧思の生まれ変わりとしての聖徳太子」は天台宗が後日主張していったらしい。

日本史の教科書をみると建仁寺の開山である明庵栄西が「日本禅宗の開祖」とされている。これは前後日本史教科書の中心人物となった家永三郎氏の「日本禅宗=宋朝禅の伝来=鎌倉時代」という主張が色濃く反映されている。著者はここにかなり疑問をもって本著を綴っている。

栄西は鎌倉幕府の帰依をうけることで、政治的に優位に立ち、いわば禅宗始祖の栄光を手にしたのだ。栄西の禅宗は密教色が強く、道元の密禅併習とは一線を画す。道元は祗管打座というものを志向し、純粋禅の方向性をとり曹洞宗としてまとまっていく。

鈴木大拙が取り上げた盤珪禅師の話はまったく出てこなかった。筆者の関心が「栄西が本当に日本禅宗の開祖か?」というところにあったためなのだろう。少なくとも日本の禅宗は栄西以前から仏教の中にあったということは間違いないだろう。禅宗の縦軸が見えた点が収穫だった。


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