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035ものづくり――やまとことばの融通無碍さ

ところで、いまさらなのですが、ここで、ここまで書いて気になっていることを処理しておきたいと思います。それは、わたしたちがよく使う「ものづくり」ということばの、表記法、記述法についてです。
わたしたちは、「ものづくり」ということばを、匠の熟練した伝統工芸の技から最新鋭のマシニングセンターによる全自動の加工、さらには子供の工作教室から粘土細工などまで、なんの抵抗もなく使っています。
単に物を加工する、つくるという物理的な行為だけでなく、その前後の発想や計画・設計、さらには準備、片づけなどまで、きわめて広い範囲を含めたことばとして使っています。このことばがもつ、なんでもありの融通無碍さにこそ、日本人の「ものづくり」の本質があるのではないかと思います。
わたしは外国語の専門家ではないので自信はありませんが、日本人が使うようなニュアンスの「ものづくり」に相当することばが、英語やドイツ語、フランス語、スペイン語、中国語……など、他の国にあるかと問えば、答えはおそらく「?」でしょう。このことばこそ、日本のものづくりを特徴づけることばではないかと思います。
本稿ではここまで、ことばとしては「ものづくり」と表記してきました。なかには、なぜ「モノづくり」や「物づくり」、「物作り」、「物造り」、あるいは「もの創り」ではないのかと違和感をお持ちの方もいらっしゃると思います。
一例をあげただけでこの組み合わせの数です。その無限さも日本語のすごいところです。組合せによって意味が微妙に変わる、それを楽しめるのも日本語ならではの魅力と言っていいでしょう。
話しを本論に戻しましょう。
「ものづくり」ということばは、日本固有の「やまとことば」と説明されています。ここでいうやまとことばとは、やまとの時代から使われていた、日本本来のことばの使い方ということです。
といっても、「ものづくり」ということばそのものが、やまとの時代に使われていたというわけではありません。「もの」「つくる」ということばがあって、両方をつなげた「ものづくり」という表現が、本来から日本にあったことばの使い方だということですね。
本来から日本にあったというのは、漢字が大陸から輸入される4、5世紀以前から日本で使われていた日本オリジナルのことばの使われ方だということです。
ものづくりという表現が意味するところは、加工や手作業、生産、技術などの物理的な作る、加工する行為に限りません。ものを発想したり、企画・設計したり、作ることにまつわる思いや知恵、工夫、思索、概念、姿勢など広い範囲の意味が含まれています。
そのためでしょうか、「つくり」のことばに「作り、造り」などの漢字を当てずに、ひらがなを当てる人が多いようです。
私もこれまで、「ものづくり」とひらがなを使ってきました。
そのことにさしたる理由はありませんでした。ただ、「物」「作り」「造り」とすると、漢字の意味に引きずられて、具体的な「物」を加工する物理的な行為のイメージが強くなり、それでは、発想やアイデア、企画・設計などの要素が抜け落ちてしまいます。さらに「創り」とするのは、同じようにゼロから創造する方向に偏ってしまうので、ひらがなで「ものづくり」と表記した方がすべてを包含してしっくりくる、そんな気がしていたにすぎません。
そして、ひらがなで書くことについて、きちんと根拠を説明できずにいたことに、ある種の落ち着きのなさを感じていました。
しかし、あるときたまたま手にした、中国文学者である高島俊男の ④『漢字と日本人』(文春文庫)を読んで、以下のような説明に出会い、目からうろこの思いがありました。
高島は、『とる』という語には、「取る」「採る」「捕る」「執る」「摂る」「撮る」などがあるが、どうつかいわければよいかと質問をされることがある、と前置きをして、

「「とる」というのは日本語(和語)である。その意味は一つである。日本人が日本語で話をする際に「とる」という語は、書く際にもすべて「とる」と書けばよいのである。漢字でかき分けるなどは不要であり、ナンセンスである。「はかる」も、おなじ。その他の語ももちろんおなじ。・・・(中略)・・・純粋の日本語を書くときに、ここは中国人だったら何という動詞をあてるだろう、と頭を悩ます必要なぞ、さらさらないのである」(④『漢字と日本人』(文春文庫))

と書いています。
小気味のよい明解な説明ですね。ここで高島が、和語と書いたものが、ほぼ、やまとことばを指しています。「ものづくり」という言葉の持つ融通無碍さはどうでしょうか。ものも精神も同じレベルで自在につながっています。

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