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029.三井物産横浜ビル・日東倉庫

≪3.生糸貿易をささえた横浜の洋館・建造物025/日本大通り≫
*日本大通りに面して建つ優雅な三井物産横浜ビル。左の通り、すぐ裏にある少し低いビルが日東倉庫だが、今はない。
 
 日本大通りをはさんで、横浜地方裁判所の向かいに立つのが三井物産横浜ビルです。その裏に日東倉庫のビルがありましたが、残念ながら平成27(2015)年に取り壊されてしまいました。
 表の三井物産ビルは、写真を見ると1棟に見えますが、実は、向かって左半分の1号館(明治44(1911)年建設)と昭和2(1927)年に増築した右半分の2号館からなるビルで、1号館は日本で初めて鉄筋コンクリートで建てられたオフィスビルとして知られています。
 裏にあった日東倉庫ビルはさらに古く、前年の明治43(1910)年に建てられた建築史的にも技術的にも非常に貴重なビルだったのですが、老朽化で取り壊されてしまいました。
 明治43、44年ころといえば、生糸貿易が真っ盛りの時期で、ここから昭和の初めにかけて、三井物産が急激に成長している時代です。事務所棟を増築するというのがそれを物語っています。横浜の生糸貿易の姿を伝える意味でも貴重な建物なのです。

すぐ裏にあった日東倉庫(左のビル)。建築史上貴重な実験的鉄筋コンクリート造りの
ビルだったが、平成27年(2015年)に取り壊されてしまいました。

 ■幕府の命を受けて三井組(三井物産)が開港場に出店
 三井物産(前身は、三井組)の横浜での活動は古い。慶長年間(1596-1615年)に松坂で創業、その後江戸に出て越後屋を外業し成長、幕府との取引に発展して豪商となります。
 横浜が開港した1859年といえば、新選組が結成される(1863年)4年前、京都の町では、尊皇派×攘夷派が暗躍し、緊迫しつつあるころです。ペリーのこわもて外交と相まって、大勢は、攘夷の意見に傾きつつある中での開港でした。
 そもそも港を開いたからといって、海のものとも山のものともわからない開港場に進出する店舗があるのかと危惧する幕閣の意見を受けて、幕府は出入りの豪商に横浜開港場への出店を要請します。その際に三井呉服店もその一つとして出店したのが始まりです。
 さすがの幕府の口利きで本町4丁目=いまの本町2丁目、馬車道と本町通りの交差点あたりの一等地に「三井物産会社」を構えました。

本町4丁目角に出店した三井物産会社。この時にすでに社名は
「三井物産」になっていることがわかります。(横浜版画「日本絵入商人録」)。

事業は順調で、明治26(1893)年には合名会社になり、明治42(1909)年ころに日本大通りに移ってビルを建てました。
 できた順序で紹介すると、最初に作られたのは日東倉庫と呼んでいる、三井物産系列の日東倉庫株式会社の倉庫で、このビルは、三井物産の事務所ビルを建設するにあたってのいわば、露払い役のようにして建てられたものでした。
 構造は、3階建て、地下1階の鉄筋コンクリートですが、壁はタイルとしてレンガを貼り、屋根および柱は鉄筋コンクリート造り、床は木造という混構造です。
 
 当時はまだ先進技術の鉄筋コンクリート造りの事例が国内にはなく、信頼性を懸念した設計者の、事務所ビルを建てるための、いわば確認のための事例づくりのニュアンスが強かったようです。倉庫は建築以来、内装がまったく変わらず貴重な姿をとどめていました。
 ちなみに日当倉庫の設計は、遠藤於兎でしたが、この後に建てたこの事務所は米国で鉄筋コンクリート造りの経験を積んでいた酒井祐之助と分業請負と称して共同設計になっています。
 後に建てた事務所棟(1号館)は鉄筋コンクリート造り4階建て、地下1階。倉庫は壁などをレンガで作っていたところを、ここでは初めて全駆体鉄筋コンクリートで作っており、この2つの建物は、わが国で鉄筋コンクリート造りが始まった際の経緯を物語るものとして非常に貴重な建物なのです。

ビルからずんと出っ張った軒のコーニスが特徴。

■歴史的建造物としての「申請なし」
 事務所棟の入り口は、当初は現在の日本大通り側ではなく、日東倉庫がある通りに面して作られていました。昭和2(1927)年に増築された際に、日本大通りに面して中央に入り口が移されましたが、横の入り口もそのまま閉められることなく、使われています。
 事務所棟は、最初の左半分が1911年に建てられた後、16年後に右半分が増築されたのですが、みたところまるで分らず、始めから一棟として建てられたといわれても違和感はありません。
 外壁は、事務所棟、倉庫棟ともに白い化粧レンガタイルが貼られ、壁の腰には花崗岩が貼られています。事務所棟の特徴は何といっても、突出する軒の張り出し=コーニスで、シンプルな意匠ながら伝統を強く感じさせます。明治というよりも、昭和初期の建物の特徴を持っており、当時としては、極めて先進的な設計がなされたビルといえます。
 遠藤於兎は、昭和の初めに、鉄筋コンクリート+レンガ張りで生糸検査所(現合同庁舎)を設計していますが、構造的には、基本的にこのビルの発展版と理解することができます。外観デザイン的にみれば、張り出した軒と丸みを帯びた構造など、むしろこちらの方が優雅で美しいと考える専門家もいます。
 中で使われているエレベーターは建築当時のオーチス社製で、屋上には蛇口を備えた水洗便所のためのコンクリート製水槽が残されています。
 しっかり建てられた建物で、その意味では鉄筋コンクリートの黎明期に、歩留まりを多めにとって慎重に作られたということもあるかもしれません。関東大震災で一帯が全壊する中で、このビルは生き残り、震災後も直ちに営業を開始できたそうでした。

 ビルの内部は建築当初からは何度か改装されてしまっているのですが、
このオーチス社製のエレベーターはそのまま。これも貴重です。

 日東倉庫ビルも、この三井物産横浜ビルも、申請さえすれば市の歴史的建造物として認可されることは間違いありません。市や専門家など周囲はそれを期待していたのですが、申請が出されないために、認定されていません。指定されると、管理の条件が厳しくなることから所有者が指定を避けるという傾向があるようです。保存と活用のはざまで一筋縄ではいきません。
 日東倉庫は解体されてしまいましたが、歴史的建造物に指定されていても、老朽化による危険性も言われ、指定解除願などが出されて解体は免れなかったかもしれません。私有財産なので致し方のないことではあるのですが残念です。何とかこの事務所棟は、残してほしいと思います。
 
●所在地:横浜市中区日本大通14

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