(10) およそ中国数千年の歴史を振り返っても心中はただの一件もない

中国人には「心中」というものがないと言われても、昭和の人間にはにわかには信じがたい。
というのは、戦後まもなくに、『天城山心中――天国に結ぶ恋』があったことを知っているからである。
天城山心中とは、1957年(昭和32)12月に、当時、学習院大学の学生だった旧満州国皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)のめいにあたる愛新覚羅慧生(えいせい)(19)、と大久保武道(たけみち)(20)が12月の初めに伊豆天城山で行方不明になり、のちに遺体で発見された事件である。当時はマスコミで、「天国に結ぶ恋」として大いに話題になった。
テレビもない時代だったが、ラジオで連日報道されて翌年新東宝から「『天城心中 天国に結ぶ恋』として映画にもなった。私自身はこの映画を見た記憶はないが、日本とも縁の深い旧満州国の皇女の日本人学生との心中である。話題になっていたのはよく覚えている。
そんなことを思い出せば、旧満州国とはいえ、戦後は中国領でもあり、歴史的にも心中がないとは思いもしなかった。
 
しかし、どうやら
 
  中国数千年の歴史で心中はただの一件もない
 
というのは本当らしい。
だから、日清戦争後に大挙してやってきた魯迅ら中国人留学生たちは、日本では若い男女が心中する、情死すると聞いて、驚いたそうだ。
 
■漢語には情感の微妙な動きを表現する言葉がない
 
中国で心中がない理由は、漢語は書き言葉であり、感情を表現する語彙が発達していないため、個人の感情や感性を表す言葉が十分ではなく自分の精神生活や他人に対して豊かな感情を表現することができない……ということによるそうだ。
 
シナで漢詩を書いたり読んだりできるのは一部の男子だけである。したがって男女の間で漢詩を交わしたり、ラブレターを書いたりすることもあり得ない。……ということもあるらしい。
これは現代の中国ではありえないことではないだろうが、戦前くらいの中国ではこうした状況もあったろう。
 
言葉があって意識が芽生え、考える。
いまの中国人留学生たちも、中国人同士で話していても、「やさしい」という言葉が中国語の表現にないので、「やさしいと」言おうとすると、そこだけ日本語で「やさしい」と言わざるをえないそうだ。
 
中国人が相手の情感の微妙な動きを読めないというのは、なんとなくわかる気がする。
 「はじめにことばありき」で、表現する言葉がないので、そういう感情が持てないのですね。

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