千葉雅也と村上春樹から、言葉について考える。

最近、ドストエフスキーを再読している。

今は『未成年』の下巻の真ん中あたり。
ドストエフスキーについて何か書きたいのだけれど、無謀なチャレンジであることは重々承知していて、

たしか北杜夫は「どくとるマンボウ」シリーズ(大学生のとき愛読書だった)のどこかで、
「ドストエフスキーについてはスゴすぎて語るのもおこがましい気がしてくる」
みたいなことを言っていたと思う(間違っていたらごめんなさい)。
小島信夫も、「私の作家遍歴」で、「貧しき人々」や、「罪と罰」を題材にとって、とんでもない現実破壊兵器みたいな文章を創り上げたが、それ以降の長編について、同じような文章は書いていない(ちなみに、「私の作家遍歴」は自分の読書体験の中で最も危険な、リアルとフィクションの感覚を反転させかねないドラッグ的な書物なので、是非読んでもらいたい。言葉とはこんなにも人間の認識を破壊できるのか、と驚かされた)。

ドストエフスキーの長編について、語ろうなどと、何と大それたことを言葉にしてしまったのだろう……。
けれども、じゃあ、チョモランマに登りたいと、登山初心者が言っていけないものか。
でも、言ったからには、誰に迷惑をかけることはなくても、やはり、責任が生じる。

じゃあ、そのために、というか、まず文章というものを考えるために、何が必要か。
それは「言葉」というものについて、本質的な理解を深めることなのではないか、と思った。
それをきっかけにして、言葉について考えてみたいと思った、というほうが正しい気もする。

ということで、千葉雅也と村上春樹を一昨年、昨年と読み続けてきた経験をもとに、「言葉」について考えてみたい。

まず、千葉雅也の「勉強の哲学」について。
第一章では、人間とは周囲の「環境」に無意識的に乗っ取られている存在である、と書いてある。そして、それから自由になる、距離をとるための鍵として、「言語」を挙げる。
言葉とは、その環境からインストールされるものであり、そこで用いられる言葉は、環境が強要するコード(こうするものだ、という意味)を刷り込むものである。ある環境に身を置き、そこで言語を使う以上、私たちは他者に乗っ取られざるを得ない。

一方、言語には現実に縛られない独自の自由がある。
以下、引用。
テーブルの上にリンゴがあっても、たんに言葉として、「リンゴは箱の中にある」と、非現実的なことを言うこともできる。「ここにはクジラがいる」と言うことさえできる。

ある環境、すなわち言語的なVRが、人を支配もすれば解放もする。
いわば、言語は人間のリモコンである。

ここに注目したい。
本当に、まさしく、言語とは人間のリモコンじゃないか! と驚きたい。
そして、このことに自覚的に生きてみる。
そうすると、人間とは、まさしく環境が強いる言語と自分の中の言語との狭間にいる存在であると分かる。
ここからは、千葉雅也の話を土台にして個人的に言葉を定義しながら話を進めていきたい。
言語には共同体、環境が個人をコントロールする「共同体的言語」と個人が内的世界の中で形作る「個人的言語」の2つがあるのではないかと仮定してみる。
「共同体的言語」とは、共同体のコードを共有し、伝播させるための言語。もちろん、これは極度に個人の自由を制限するのでなければ否定されるべきではないと思う。たぶん、人間的な共同体の成立の起源と言語はリンクしているはずだし、共同体そのものは「良い共同体」もあれば、「悪しき共同体」もあるはずである。
一方で、「個人的言語」とは、共同体とは別に、個人がさまざまな言語や、個人の実感に基づいて言語化していった、パーソナルな言語世界みたいなものとして仮定したい。

この「個人的言語」についてのイメージについては、村上春樹の「職業としての小説家」から説明したい。
またか、と言われるかもしれないが、去年から読み直し続けている本なので許してほしい。
以下、引用。

時間は、作品を創り出していく上で非常に大切な要素です。とくに長編小説においては、「仕込み」が何より大事になります。自分の中で来るべき小説の芽を育て、膨らませていく「沈黙の期間」です。「小説を書きたい」という気持ちを自分の中に作り上げていきます。そのような仕込みにかける時間、それを具体的なかたちに立ち上げていく期間、立ち上がったものを冷暗所でじっくり「養生する」期間、それを外に出して自然の光に晒し、固まってきたものを細かく検証し、とんかちしていく時間……そのようなプロセスのひとつひとつに十分な時間をかけることができたかどうか、それは作家だけが実感できるものごとです。そしてそのような作業ひとつひとつにかけられた時間のクォリティーは必ず作品の「納得性」となって現れてきます。目には見えないかもしれないけれど、そこには歴然とした違いが生まれます。

この部分は、あまりにも名文過ぎて、読み直しては読み直し、かっこいいなあ、こんな風に生きてみたいな、と憧れながら、やっぱり何回も何回も読み直してきた。

そして、個人的な実感として、これは作家だけではなく、大なり小なりあらゆる物事に共通するのではないか、と思うようになった。
言い換えるならば、「ある物事をちゃんと時間をかけて継続すれば、実感が生まれる。そしてそれは、納得性として現実に現れる」。
そして、その「実感」は、個人が生きる上での基盤になる。コツコツと継続することこそが、自分なりの言葉を獲得する基盤になる。

これを千葉雅也につなげてみる。
村上春樹の「時間によって得た納得性」は、間違いなく「環境のコード」を超える言語としての力を持っていると私は感じる。「環境のコード」に対抗しうる、言い換えるならば中和しうる「個人的な言語世界」。
わたしは、それを本当にかっこいいと思う。実際にはあらゆる苦しみが世の中にはある、もしくは村上春樹に実際にふりかかったであろうことが、文章の端々から感じられる。それでも、誰がなんと言おうとオレには「納得性」があるんだ、そのための時間を実際にかけてきたんだ、という、その言葉が、自分の中にあるかどうか。

村上春樹のこの例はあくまで村上春樹のものだ。
けれども、この人は、苦難にあっても何かを継続して自分の言葉を得た人なのだ、と思った。わたしが思うのは、人間はこのように何かを磨き上げることによって、「環境のコード」と対抗しうる力を持てる。いや、たぶん簡単には持てない。それは村上春樹だから持てたものなんだ、とも思う。けれどもその言葉は、少なくとも、希望をくれる。

世の中は甘くない。「環境」は「個人」より強い。「個人」は「環境」に勝てない。
けれども少なからず「納得性のある言語」を磨き上げることによって、「環境のコード」を少しずつ中和できるかもしれない。
少なくとも、村上春樹はそれを現実にした、もしくはそれを現実にあるかのような「言葉」を紡いでくれた。
そうやって、中和してできたわずかな空間こそが、人間の「自由」であり、現実にはそれはあまりにもわずかだ、という考え方はあまりにも悲観的すぎるだろうか。

たぶん、そもそも、完全な「自由」を求めることが間違っていることは分かる。
千葉雅也が「現代思想入門」のデリダの章で、人間は正誤、善悪の二極ではなく、そのグレーゾーンにリアリティが宿ると言った。
そして、そのグレーゾーンにおける決断の中で、忸怩たるものが、あらゆる局面で生じてくる、という。それでもその決断をするのが「大人」なのだという。その「忸怩たるもの」という言葉が、胸に刺さる。
千葉雅也の言葉は、たぶん、正しい。
けれども、そのグレーゾーンの中で、それでも自分の実感のある言葉を紡げるような人間でありたいと、思う。


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