ドストエフスキー『未成年』について書く前に

ドストエフスキーを再読している。
『悪霊』を読んでいたのだけれど、どうにも話の重さに耐えられず、下巻の途中で『未成年』に鞍替えした。そして、上巻の終盤に行き当たり、この文章を書いている間に、下巻に入った。

これら二作品を読んでみて、実感として強く残りつづけているのは、オレ、本当にはこれらの作品を全然読めていなかったんだなあ……、という驚きだった。

その「読めていない」とはどういう状態か。
それは、登場人物、主に主人公に感情移入したり、読んでいる時の感触に自分の主観を混ぜ込んで、
つまりこいつは「善」
そんでこいつは「悪」
と、腑分けしたりする読み方。
もちろん、この読み方が間違っているとは思わない。エンタメ小説であれば、この読み方が主流だと思うし、悪が倒されるのはスカッとする。何より分かりやすい。

しかし、この読み方でドストエフスキーの小説にあたると、とんでもない誤読を招きかねない、というか、そもそもドストエフスキーの小説は「善悪の判断」を拒絶しているように感じる。

ここから先を、どう書いていこうか悩む。
「悪霊」の自由思想とロシアの実情の間でもがく無神論者の話を挿入するか?
最近読んだ千葉雅也の「勉強の哲学」に迂回して、読書の方法論へと話を進めるか?
「未成年」の主人公、ドルゴルーキーの告白を挿入するか?
村上春樹の「職業としての小説家」から、文学作品がつくられる過程との関連性について触れるべきか?

たぶん、語りたいことの中心は、
読むとは出来事を目の前にあるように再現することであり、それを要約することでも、解釈することでもない……
そうなのだけれど、それだけではないような気がする。

ここで、「ダンス」について書きたい。
「ダンスダンスダンス」という村上春樹の小説がある。
主人公はとあるホテルで羊男と再会する。
以下、引用。
「でも、わからないな」と僕は言った。「今僕はこうしてはっきりと君の顔や形を見ることができるようになった。昔見えなかったものが、こうして見えるようになった。どうしてだろう?」
「それはあんたが既に多くの物を失ったからだよ」と彼は静かに言った。「そして行くべき場所が少なくなってきたからだよ。だから今あんたにはおいらの姿が見えるんだよ」
僕には彼の言葉の意味がよくわからなかった。
「ここは死の世界なのかい?」と僕は思い切って訊いてみた。
「違う」と羊男は言った。そして肩を大きく揺らせて息をした。「そうじゃない。ここは死の世界なんかじゃない。あんたも、おいらも、ちゃんと生きている。我々は二人とも、同じくらいはっきりと生きている。二人でこうして息をして、話をしている。これは現実なんだ」
「僕には理解できない」
「踊るんだよ」と彼は言った。「それ以外に方法はないんだ。いろんなことをもっと上手に説明してあげられたらと思う。でもそれはできないんだ。おいらに教えてあげられるのはそれだけだよ。踊るんだ。何も考えずに、できるだけ上手く踊るんだよ。あんたはそうしなくちゃいけないんだ」

ここの羊男の最後の言葉に注目してほしい。その前に主人公と羊男の関係を説明してくれよ、という人はとりあえず『羊を巡る冒険』を読んでもらえば問題ない。村上春樹が初めて専業作家として書いた物語で、是非読んでもらいたい。
それはともかく、
羊男は「踊るんだよ」と言う。
「踊る」とは何か。
「それは上手に説明できない」ことらしい。
これから先、実際に主人公は警察に捕まって証拠が残らないよう搾られたり、霊感のある少女と一緒にハワイに行ったり、俳優になった中学時代の同級生と酒を飲んだりする。それ以外にも簡単に解釈できない不思議な出来事をくぐり抜けていく。
主人公は物理的な「踊り」を踊らずとも、物語の中で「踊って」いることになるはずである。

さて、「踊り」について、千葉雅也の「勉強の哲学」の話をしたい。
以下、引用。
言動についての価値判断、それに結びついた喜怒哀楽の変化を一時停止して、ただ自然を観察するようにしてみる。そうすると、相手の言っていることも行動も、意味から離れて、ただの動きに、「運動の形」になってくるでしょう。
(中略)
目の前の出来事を、根源的な意味で「世界のダンス」として捉える。何をしているのか(意味)ではなく、動きそのものの面白さを鑑賞する芸術としてのダンスです。ダンスとして日々の出来事を見る。それは、出来事を目的性から解放し、出来事を自己目的的な運動として見る、ということです。

これは別に「ダンス」について思いついたことをただ羅列していっているだけなので、変に結びつける必要は全くない。結び付けられなくはないが、もちろん全く関係ない話でもある。

ところで、また村上春樹に戻ると、村上春樹は「職業としての小説家」でドストエフスキーについて、こう言っている。

考えてみると僕の好きな小説には、興味深い脇役が数多く登場する小説が多いようです。そういう意味合いでまずぱっと頭に浮かぶのは、ドストエフスキーの『悪霊』ですね。お読みになった方はわかると思うんですが、あの本には何しろへんてこな脇役がいっぱいでてきます。長い小説ですが、読んでいて飽きません。「なんでこんなやつが」と思うようなカラフルな人々、けったいなやつらが次々に姿を見せます。ドストエフスキーという人はきっとものすごく巨大な脳内キャビネットをもっていたのでしょう。

そして、この「脳内キャビネット」に関しては、これよりも前の箇所で説明されている。やはり引用させていただく。

ジェームズ・ジョイスは「イマジネーションとは記憶力のことだ」と実に簡潔に言い切っています。そしてその通りだろうと僕も思います。ジェームズ・ジョイスは実に正しい。イマジネーションというのはまさに、脈絡を欠いた断片的な記憶のコンビネーションのことなのです。あるいは語義的に矛盾した表現に聞こえるかもしれませんが、「有効に組み合わされた脈絡のない記憶」は、それ自体の直感を持ち、予見性を持つようになります。そしてそれこそが正しい物語の動力となるべきものです。
とにかく我々のーーというか少なくとも僕のーー頭の中にはそういう巨大なキャビネットが備え付けられています。

ここで考えてみる。
そもそもの前提として、ある種の作家は、踊りを踊っている、あるいは音楽を演奏している。それは物質的な動きや、音の連続を比喩として表現されるようなイマジネーションの発露のことを指している。

ドストエフスキーの小説を読む際には、このイマジネーションの喚起力、脈絡のない記憶の組み合わせによって物語を推進させるエネルギーそのものを受け取る必要があるのではないだろうか。

だとすれば、羊男の言葉は、メタ的な視点に立てば「お前はこれから小説を動かすエネルギーそのものとなるだろう」という予言、ということになるかもしれないが、それこそ染みついてしまっている解釈癖からのもので、読んでいる時間のなかでこんなことを考えては興醒めしてしまう。

物語には、そもそもにおいて矛盾した成り立ちをしているものも存在する。
イマジネーションは関わり合っているにもかかわらず、脈絡がない。それはダンスやメロディーというような比喩で表すほかないものである。
だから、読み手はそれをそのままに受け取ろうと思うなら、静止写真のように解釈によって固定するのではなく、連続体として捉える必要がある。
つまり、ある種の物語は言語によって成り立っているにも関わらず、言語によって解釈することによって死んでしまう。これはまさしく人間を何かしらの評価基準によって一元化しようとする力と全く同じ構造である。
やろうと思えば、
ドストエフスキー?
ただ人間離れした行動をとる人間がたくさん出てくる狂った小説をたくさん書いた何を考えているか分からん人だろ?
と、いう風に言うことができる。
なぜならば、それは静止写真として捉えれば、全くもって正しいからだ。

じゃあ、お前は、ドストエフスキーについて何が書けるんだ?
というツッコミが、ここで入るだろう。

……自分は、ドストエフスキーの『未成年』について、何が書けるんだろう?
これをなんとか、言葉にしたい。

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