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なめられない自分はなりたい自分ではない


メニエールになってから繰り返し産業医と管理者から言われて傷ついた言葉がある。
「元々メンタル弱くて、そっち系の病気持ってたんだよね?」
「その、気にしすぎる性格変えるの難しい?」

今思えば、組織側の保身のための発言で私のためを思った発言ではないし、
たとえ元々病気があったとしても、気が弱かろうとも、心身が悪化したことの全ては個人の責任じゃない、と思う。

それでも、当時の私は
病気で気が弱っていること、自分自身は未熟すぎると認識していることから
“私がちゃんと自己管理ができてないから”
“私が気にしすぎて、やり過ごせないのが良くなかったから”
“私がうまく伝えたり、立ち回られなかったから”
私が至らず、未熟だからメニエールになったのだと、自分をかなり強く責めました。
だから、自分を矯正するために認知行動療法を受けたいと心療内科とカウンセリングで訴えたら
まさかの笑い飛ばされた…!!!
「あなたはその言葉を言った人ぐらいの無神経な自分をよしとできるの?」
「あなたが変えるのは認知じゃなくて行動だよ」

たしかに…配慮が足らない言動をしてしまうことを反省することはあっても、無神経になりたいと思ったことはない。
それに、これって私なら言っても反撃されないと思ってるから言ってるんでしょう?と侮られているような気もしなくもない。

そして、心身ともに傷ついた人を責めて、改善を求めるのはなぜなんだろう。という疑問が芽生えた。

傷つけた側は「そういう人だから仕方ないのよ」「良いところもあるんだよ」と許される。
一方で、なぜ弱った側は、ありのままの弱さをもつ人として「そういう人」では許されないのだろう。

組織の悪しき体質を変えることは簡単ではないから個人に向くのは仕方ないのかもしれない。
だからといって言いやすい個人にすべての責任を押し付けたって体質の改善にはならない。
ありのままを許されている「そういう人」にも、
ありのままを許されなかった弱った人にも、
必要なケアの提供をしていないのに
組織の体質なんて変わらない。

侮られないようにしたら、
私も「そういう人」になれるのかもしれない。
侮られすぎないように意識はする、
それでも、私は侮られない人になることは目指さない。
私の在り方を他人の目から見てどうか…で、
決めると、その人に自分の大切なことの決定や評価を委ねてしまう気がする。
自分のなりたい私になる道は遠い。
大切な人を大切にできる私になりたい。

気にしすぎて空回りすることだって多くて、
至らない自分を反省することだって多いけど、
それだって、やりすぎなければ悪くない。
正解はなくて、完璧はなくて、それでも失敗はあるし、間違いはある。
でも、今の失敗と間違えは
きっといつか誰かに渡せる優しさになると思う。
そして自分の人生の豊かさになるんじゃないかなー。と思う2023年の夏のはじまりです。

梅雨が明けて、まるで残暑のような爽やかな暑さになりました。
イソバイド1回ぐらい抜いても、干からびてめまい起こらないんじゃない!?
って言いたいけど、ストレスで水が溜まるのでお互い頑張って薬も水分も飲みましょうねー!

長文を読んでくださってありがとうございます✨


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