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凧あげをした雪の野菜畑、いまはショッピングセンターになっている。

 商業地域に接する住宅街の、端っこ近くに住んでいる。隣のブロックには美容院、2本道路をはさんだ地にはショッピングセンター。その一帯には、スポーツクラブ、スパゲティ屋、中華ファミレス……。

 10歳、引っ越してきたとき、それらはみな農地だった。春には 肥料の匂い、秋には収穫の匂いがした。
  2階の子供部屋から眺めるとどこまでも続く畑と、電線に繋がれた電信柱が、何本も数えられた。

 正月に、雪の畑で、人様の土地にも関わらず、父と弟と凧あげをした。その頃、私は凧を作るのが気に入っていたので、自作のものだったと思う。
 雪で覆われた畑は、フラットだった。夏の頃のように、境界も、うねの凸凹も、作物もない。
 真っ平ら。白くて。

 父は長靴を履いて、いつも通り、子守も人生の仕事のうちだ、というような顔をしていたと思う。はしゃいで笑うわけでもない、不機嫌でもない、いたって普通の顔で……。

 たぶん、小学生の私は本気で凧揚げをしたのだとおもう。父はお世辞を言う人ではなかったので、いや、仕事では多少は言うらしかったが、子供の機嫌をとるような父親ではなかったので、おそらく、下手だなとか、お前はなかなか上手いな、とか、本当に自分が思ったことだけ言っていたのだろう、と思う。

 年月がすぎ、辺りには色々な建物ができた。高校を出て東京に住んだ。
 バブルの頃だった。たまに帰省すると、なんもいえず、あたりのフンイキが賑々しくなっていた。
 もともと技術者の父が、平日なのに仕事だと行ってポロシャツで接待ゴルフにいくのに、ギョッとしたりもした。

 バブルははじけた。父は家を建て替えた。老後に夫婦とばあちゃんだけが住むはずだった家に、娘(私)と孫二人と、東京に疲れた息子(弟)が帰ってきたので、人が満杯になった。
  
  もう、辺りに畑はない。農地を売った農家が、大きな屋敷を建てている。

 ばあちゃんはとても長生きだった。父はそうでもなかったので、ばあちゃんと、父の亡くなった差はほんの数年しかなかった。

 あの正月に凧揚げをしなかったら、すっかり商業地域になってしまった、近所一帯が、昔は畑だったと、私は覚えていなかったのかもしれない。  


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