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理解することに自分が協力する

今日は、「イングリッシュペイシェント」という映画を観た。
好き嫌いでするかしないかを判断しがちなので、人のオススメを取り入れてみる。
映画に関しては、心がけてやっている。

この「イングリッシュペイシェント」、戦場が舞台というだけでわたしにとっては苦手な部類に入る。戦争ものの映画はいつも眠たくなる。興味が湧かないのだ。
ちなみに今回も後半に入り、うとうと眠っていたので、再度観なおした。そもそも一体どんな思い込みがあるのだろう?と自分のことを考えてみた。

争いごと、対立することを嫌っていて、例えば戦争であれば、なぜ武器を持って戦わなきゃいけないほど憎しみ合うのか?それほどまでして大切にしたいことは何だったのか?ということに興味を示すことがない。
どうせ分かり合えっこないと諦めている。
幼少期、両親の喧嘩が始まると居心地が悪く、いたたまれない気持ちになっていた。ふたりが何故喧嘩をして、どのように仲直りをしたのか、など聞かされたことがない。

書くことを躊躇するほど自分でも受け入れ難いが、「人と人は、わかり合えない」という部族的信念がある。
今は、わかり合えないことが問題なのではなく、互いに理解し合うことに協力的ではないことが問題だと思う。

わたし自身もそう。
身体が疲れやすい自分、アトピーの症状が悪化したときの自分を理解しようとしなかった。
こんなものだと諦めていたのだ。

呼吸すること、睡眠の質をあげることをするようになって、ようやく自分の身体に興味を持ち、大切にするようになっている。
その結果、自分を理解することに繋がり、「行動した先に思考が湧き、そのあと感情に気づく自分」を理解し始めている。

ちなみに、「イングリッシュペイシェント」は、戦場とはいえ、テーマは恋愛や死、信頼というようなものだった。
恋に落ちたふたり、それぞれの死にかたが印象的で、どちらも互いのことを思いながら死んでいるところは同じ。だけど、先に亡くなった女性はひとりで息を引き取り、あとに残った男性は人に見守られながら息を引き取っていた。男性の方は、生きてはいるが、ボロボロで息をするのも苦しそうな身体で予後を過ごす。
早く死んで楽になりたい思いもあり続けたのだろうが、看護者の温もりを感じ、最後まで生ききる希望のようなものが微かにあったんじゃないかなぁ。彼の心はどんな状態だったんだろう。

わたしは、生涯現役で「天晴れ!」と言いながら、ポックリと死ぬという望みがある。ということを思い出した。一体どのように叶えるのだろう。

今日のビブリオマンシー

しかし、死んだ後ではなく、生きていて、健康で、元気なうちに、考え、感じているうちに、死とは何かを自分で見出しうるのです。

「子供たちとの対話」J・クリシュナムルティ

死とは何か。
この器がなくなること。五感がなくなること。
息が途絶えること。心臓がとまること。
物理的にはそんなワードが浮かぶ。

看護師として働き始めた頃、バイタルサインは異常がない患者さんだったけど、確かにいつもとは何かが違うのを感じたことがあった。しばらく様子をみているうちに、彼の状態は悪くなり亡くなった。
全く説明がつかなかったあのときの感覚。おそらく、明らかに「エネルギー」、「気」というものが感じられなかったのだと思う。

〈大切にしたい新たな信念〉
「答え探しではなく、理解することを大切にする。」

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