背骨
「人間失格」、「推し燃ゆ」
これらの作品を読んで、私の過去を少し探索してみたいと思う。
私は中学生の頃、漫画にハマっていた。特に少年漫画だ。
私には尊敬する、熱中する、人がいた。それが、ワンピースの作者「尾田栄一郎」だ。それからというもの、漫画家を志し、来る日も来る日も絵を描きつづけ、彼になろうと、重なろうとした。
毎週のようにジャンプが発売されるのを、楽しみにして、単行本を何冊も重複して購入し、彼の使っている用具を探し出し、それまたいくつも買占め、そして彼の言葉を隅から隅まで、読みつくしていた。これは完全に、自分の中での、「推し」だったのだと思う。
当時は不登校で、学校に行けていない時期が長かった。これも、思春期の揺れ動く精神状態や、他者や学校という社会で、どのように自分を確立し、そして言語化できない、漠然とした不安、憂鬱から、逃れられるのか試行錯誤し、結果的に漫画という手段を通して、彼を「推す」という事に繋がったのだと思う。
思えば、あの時は熱中するものが異様に多かった。尾田栄一郎だけでなく、米津玄師や菅田将暉、そしてエドシーランだ。シンガーソングライターに本気でなりたいと思ったし、楽曲制作をしたりする事も考えていた。しかし、今思えば、私が本当に推していたものは、作品のすばらしさよりも、その人自身、つまり「人間」だったのではないか。
そう思うと、腑に落ちるところが多い。だって、精神的に安定してきた17歳の現在において、とくに推しがいないのである。それだけでなく、中学生ほど熱中できるものがないのである。持ち前の好奇心もあり、興味は多岐にわたるが、当時ほど、熱中して、のめり込み、信仰といっても過言でないぐらいのものは、もはやないのである。
そして、自由という選択を、重く、背骨に乗せながら、これからも生きていくのである。
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