見出し画像

新たな世界の二面性

 今日は、合格した大学の、初登校日だった。
当初は、いつもの腹痛が襲ってきたらどうしようかと、不安でいっぱいだった。何か緊張することがある日は、基本的に前日の夜に思考が巡りすぎてまったく眠れない。ストレスなのだろうか、寝返りを打っても、無心になっても、羊を数えても全然寝れない。長いときは朝の5時くらいまでそんな感じだ。そしていま、寝不足で頭が痛い中、これを執筆している。

 さて、今日の学校は、結論から言うとめちゃくちゃ上手くいったと思う。なぜなら、お腹もほとんど痛くならなかったし、たくさんの新しい友達を作ることができた。初めに隣の子に話しかけて、仲良くなったし、食堂でも4人くらいと仲良くなれた。だから、とくに失敗もなかったし、幸福感に包まれてあの瞬間だけを生きていたように思う。いつもは、過去や未来の事にとらわれて、自分の自尊心と、現実への否定が、渦巻いて、まったく無駄といってもくだらない、低俗な事をかんがえてしまうからだ。汚いことを考える私がいて、それをもう一人の私が、冷たい目で眺めている。現実の目の前に没頭していたあの時間は、なんだったんだろう。とても疲れるのだけれど、同時にすごく幸せなのだ。これが、幸せなのだろうか。

 きっと私は凄く自分勝手なんだと思う。他人と仲良くなりたいくせに、他人を敵とみなしてしまうから、他人から逃れたいとも思っている。私にとって他者は、孤独感を消してくれて、色々な世界を見せてくれる、全てが存在するものの、源泉である。だが同時に、嫉妬心を生み出し、私の存在を矮小化させ、しかも全く制御不可能な高度な対話を強要させ、生きるという視界を絶望に変えてくれる、最悪の対象なのだ。

 この新世界の二面性が私を苦しめ続けるのだ。それを克服するために、他者から離れようとして、一人でゆっくりとマイペースに生きていく方向に逃れることもある。でも、やっぱり寂しい。私はどっちつかずで情緒不安定な奴なのだ。ああ、もういいんだ。”他者”からどう見られているかなんて、なんで気にするんだ。必要以上に膨れ上がった自己意識と、他人に舐められたくないという頑固な思いが、私の正体なのだ。しかもそれを客観的にみていて、わかっているのに考えてしまうのだから、それはもはや私の防衛反応として、体に身についているのだろうか。それとも、私がまだ未熟なだけなのだろうか。もちろん、表面上は相手を気遣って、まったく嫉妬心などみせず、にこやかにやっている。でも一瞬考えてしまうのだ。その一瞬がとても恐ろしく同時に不快だ。

 明日は入学式だ。多動で色々な人に話しかけて、どこでも読書するし、好きなように動き回るし、ほかの人から見るとあきらかに目立ってしまうのは事実だろう。でも、だからといってなぜ自分を正当化する必要がある。他人に馬鹿にされていないか気にしているくせに、他人を利用して自分の孤独感を満たしているのはどうしてなんだ。未熟。わたしは、現在の自分を受け入れていない。つまり、自分を愛せていない!それが重要だ。表面的にわたしは馬鹿だと思って、しかも、”私はほんとうに馬鹿なんだと思おう”と頻繁に考えていても、たぶん私は馬鹿であることを受け入れていない。もしくは、馬鹿でない可能性もあるが、なぜそこにこだわるのか。そして、その他者による世界が作り上げる、自己充足と、自己否定の二項対立を、
ぶっ壊していかなればならない!無駄な思考だ!という事でここらへんで恥ずかしい、私の赤裸々な文章を終えたいと思う。自分を愛せ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?